Print this Post Article Lists Back

同化と排除、2つの顔の日本植民地主義(上)

【新刊】水野直樹・鄭根埴ほか著、チョン・ソンテ訳『生活の中の植民地主義』(サンチョロム) 

 1940年、日帝が朝鮮人を「皇国臣民」として同化するため、創氏改名を断行した事実はよく知られている。しかし、1910年から30年代後半までは、逆に朝鮮人が日本人風の名前に変更することを禁止していたという事実は余り知られていない。また創氏改名以降も、名前だけを見ればすぐに朝鮮人と分かるケースが多かった。

 こうした創氏改名にまつわる話からも、日帝の同化政策の中に隠された「差別」を発見することができる。1911年10月に公布された朝鮮総督府令124号「朝鮮人の姓名改称に関する件」は、朝鮮人が日本人と混同しやすい名前に改名することを禁止していた。

 当時は、同じ官僚といえども、日本人と朝鮮人は給料や旅費手当などで差別があり、総督府は「日本人と朝鮮人を区別するため、名前で区別できるようにしなければならない」との立場を堅持していた。つまり、植民地支配の秩序を維持するため、支配者と被支配者を差別する根拠として名前の「差別化」を図ったのだ。こうした創氏改名の事例を通じ、京都大の水野直樹教授は「日本の植民地主義は“同化と排除”の二重性に特徴がある」と評価した。

 この本は、2002年に京都大人文科学研究所で開かれた「生活の中の植民地主義」というテーマの公開講座の成果をまとめたもの。この公開講座には、水野直樹教授、駒込武教授(京都大)、鄭根埴(チョン・グンシク)教授(ソウル大)、松田吉郎教授(兵庫教育大教授)の韓日の学者4人が参加した。

 この本の中で鄭根埴教授は、日帝が身体規律を強調したことから植民地支配の1つの様相を見いだしている。近代国家では国家が必要とする軍事力と、市場が要求する労働力を担当する身体が必要となる。そのため、前近代の「身体」が修養と保全の対象だったならば、近代以降の身体は国家権力の精密な検査対象になり、より良い身体と健康を訓練によって育成する「体育」という概念が登場した。

 そして、学校は体操や教練などの教科を通じ、身体能力の育成と規律化を行う上で核心的な役割を果たした。日帝は、1938年に戦時動員体制への転換を進め、朝鮮に「皇国臣民体操」を制定した。近代朝鮮に新たに入ってきたスポーツや体操は、そのほとんどが日本から流入したものだったが、皇国臣民体操は植民地朝鮮から逆に日本に輸出された。また体力章(体力検定)制度は、日本の厚生省の発表に先立つ1939年7月に京城(ソウル)で実施された。さらに、42年に日帝は健民運動を大々的に繰り広げ、「鋼鉄のごとき身体は興亜の礎石」と強調した。

 ところで、日帝の敗亡と朝鮮の解放以降、総動員体制に立脚した「身体規律」が日本ではほとんど消滅した一方で、朝鮮(韓国)ではそのまま残り続けたという事実は非常に興味深い。70年代韓国の維新体制は、国民教育憲章・徴兵制・教練・体力章・国民体操など、40年代の総動員体制の遺産をそのまま引き継いでいた。韓国の40代の人々ならば、体力章種目に「手榴弾投げ」をした記憶があるはずだ。

 鄭根埴教授は「韓国における身体の動員は、1987年の6月抗争(民主化を求める100万人規模のデモ。このデモにより、ついに軍事政権から民主化宣言を引き出した)以降、根本的に減少した。韓国の民主化は、一方では軍事政権の退陣を意味したが、もう一方では植民総動員体制の解体をも意味していた」と評価した。

李恒洙(イ・ハンス)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

このページのトップに戻る