100年前、「韓民族」は存在していなかった(上)
【新刊】アンドレ・シュミット著/チョン・ヨウル訳『帝国の狭間の韓国』(ヒューマニスト)
1905年10月31日、「皇城新聞」は中国の集安で高さ6.4メートルに達する1500年前の石碑が発見されたと報じた。石碑の四方には、高句麗広開土大王(375年‐415年)の業績が1750字以上にわたってぎっしり記録されていた。同紙はこの大変な考古学的発見に興奮し、新聞を編集する上で最もよく目に留まる1面の社説欄に碑文の内容を公開し、その後6日間にわたって、後続報道を掲載した。
しかしこの石碑が発見されたのは、これが初めてではなかった。既に23年前、82年に中国当局が石碑を発見し、碑文の主人公が広開土大王だと考証していた。日本はその2年後に石碑の拓本を取り、博物館に展示した。「皇城新聞」は、こうした過程が韓国人には伝えられていなかったと慨嘆したが、事実、韓国人は同紙の報道でようやくこの石碑に特別な関心を持つようになったのだ。韓国の国権が日本の手に渡る乙巳条約(日韓保護条約)締結のわずか十数日前の出来事だった。
中国本土にまで領土を拡大した広開土大王は、民族の英雄として敬われた。当時の新聞や雑誌は、「民族」に対する談話や著述を奔流のように掲載した。だが、それまで「民族」という言葉は、文献や日常用語としては使われない言葉だった。そのため民族という単語は、この時期になって「初めて浮かび上がった新造語」だった。
本書の著者アンドレ・シュミットは、カナダ・トロント大の東アジア学部教授だ。彼は19世紀末から20世紀初めに刊行された「独立新聞」「皇城新聞」「大韓毎日申報」など韓国の新聞紙上に見られた談話を土台とし、「民族」の誕生過程を追跡した。彼は、「韓国では併合以後、民族の概念がより広範囲に流布した」と見ている。その理由はこうだ。「(韓国で)“民族”は崇高な概念であっただけでなく、客観的な総体として理解されていた。国家は奪い取られたものの、民族はその存在と自律性が代案的な形態をとって現れ始めたのだ」
著書名(原題は『Korea Between Empires 1895‐1919』)において「狭間」(between)とは、中国と日本の2大帝国の間を指す。1つは暮れ行く帝国、もう1つは昇り来る帝国だった。本の題名は、2つの帝国の間で「民族」という概念が誕生し具体化していったことを暗示している。

- 1905年、皇城新聞が広開土大王碑の発見を大々的に報道する中、広開土大王は民族の英雄として敬われ始めた。雪が降る山野を背景に、朝鮮人が広開土大王碑の横に立っている。/写真提供=チョン・ソンギル華城平和公園博物館長所蔵
イ・ハンス記者
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