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実録に見る朝鮮時代の「海外派兵」(上)

 成宗10年(1479年)閏10月、朝鮮の朝廷は明の請兵をめぐり激論を交わしていた。明は自国の国境をしばしば侵犯する女真族を征伐することを計画し、このため朝鮮も兵士を送り後方から支援せよという「事実上の命令」だった。鄭昌孫(チョン・チャンソン)、ハン・ミョンフェ、金国光(キム・グククァン)、尹弼商(ユン・ピルサン)、洪応(ホン・ウン)らは「事大」する立場から派兵を支持し、尹士昕(ユン・サフン)、李克培(イ・グクペ)、韓継禧(ハン・ゲフィ)、魚世恭(オ・セゴン)、魚有沼(オ・ユソ)らは実益がないとして反対した。そんな中、成宗は派兵の決断を下した。しかし、1万人から成る遠征隊は10日間余り鴨緑江の川辺に留まった末に、1カ月も経たないうちに「罷陣(兵士たちを家に帰し、遠征隊を解体すること)」してしまった。

 総指揮官の魚有沼が表明した撤退理由は、「鴨緑江が凍っていないから」だった。しかし明との外交問題を憂慮した成宗は、ハン・ミョンフェの提案を受け入れ、直ちに第2次遠征隊4000人を派遣した。第2次遠征隊では、派兵支持者だった左議政・尹弼商が総指揮官の都元帥に就任した。遠征隊は12月9日に川を渡り、16人の首を取り7人を捕虜にするという微々たる戦果を上げただけで、1カ月後に帰還した。幸いにも、この派兵は明に対する誠意の表れとして受け入れられ、明からそれ以上の請兵要請はなかった。これが、「上国」明の請兵に伴う朝鮮初の海外派兵だった。

 実は、この件からちょうど50年前の世宗11年(1429年)、明は女真族征伐のため朝鮮に請兵しようとした。「諜報戦の達人」でもあった世宗は、同年1月16日、千秋使として明に渡っていた李恪(イ・ガク)の報告を基に、「明では、韃靼(女真族)を征伐するために朝鮮へ兵を請おうとしている」(『世宗実録』巻四十三・十一年正月癸亥「皇帝欲請兵朝鮮征韃靼」)と言い、大臣たちに対策を議論することを命じた。

 そして、次のような指針を立てた。「やむを得ず明からの請兵に応じるしかないならば、使える兵士を選び抜いて送るのが筋だろう。しかし朝鮮は兵士が不足しているため、まずは朝鮮の事情を明によく伝えて派兵の難しさを訴え、それでもだめなら兵士を送るべきだ」(同上「不得已而応之則宜抄可用兵以送、然我国(中略)人物鮮少、当奏朝廷、不免然後応之」)。名分と実利の調和を図った指針だった。

イ・ハンウ記者

朝鮮日報/朝鮮日報JNS
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