実録に見る朝鮮時代の「海外派兵」(下)
この後、燕山君10年(1504年)や中宗11年(1516年)、中宗38年(1543年)にも明から請兵を要請される可能性があったため、朝廷では事前に準備を整えていた。特に中宗38年には、山東巡按御史の胡汝輔が明の中央政府に送った報告に「朝鮮に請兵しなければならない」という内容が含まれているという情報を入手(『中宗実録』巻一百・三十八年正月丁未)、派兵のためあらゆる準備を整えたが、明軍だけで征伐に成功し請兵はなかった。
こうした努力があったことで、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)に当たり明は大軍を派兵した。国が再び出来た、という意味の「再造之恩」という言葉も生まれた。しかし、ヌルハチの後金が勃興し明と対立するようになるや、朝鮮は両国間に挟まれることになった。この状況で、「再造之恩」は足枷となった。1618年(光海君10年)、ヌルハチが明を攻撃すると、明は「再造之恩」を名分として朝鮮に請兵した。いや、請兵というよりは「徴兵」だった。
議論の末に翌年2月、姜弘立(カン・ホンニプ)が都元帥となり、精鋭の鳥銃手5000人を含む1万人の遠征軍が編成され、鴨緑江を渡った。しかし3月、深河で後金軍と遭遇した明・朝鮮連合軍は惨敗した。姜弘立は捕虜となり、後日、丁卯胡乱(1627年、仁祖5年に起こった後金による朝鮮侵略)の際に道案内役として朝鮮に戻って来ることとなった。その後明は滅び、丙子胡乱(1636年、仁祖14年から翌年にかけて起こった清軍による朝鮮侵略)を経て、朝鮮は清の「属国」となった。
即位当初から清の年号を使わないようにしたほど、反清意識が強かった「北伐君主」孝宗も、結局は清の請兵に屈服し、清がロシアと戦争を起こした際、鳥銃兵を中心とした数百人規模の兵を2度に渡って派遣しなければならなかった。粛宗の時代は、状況がやや複雑だった。呉三桂が明の継承を名分に掲げ三藩の乱を起こし、これを受けて清が請兵を要請してきた。朝鮮では、丙子胡乱以降武装を整えることができないようにした「清との約束」を根拠として、兵力が微弱で請兵に応じることができない、と答えた。表面上は清との「事大」を維持したが、精神的には明に対する事大を捨て去ることができなかったためだ。
実録が伝える大国の請兵に対する最善の策とは、結局のところ、世宗が語った通りだ。「出来るだけ堪えて、不可避とあらば心を尽くして臨め!」
イ・ハンウ記者
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