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最も日本的なもので勝負! 日本ワイン産業の挑戦(上)

130年の歴史、日本のワイナリー・メルシャン紀行

メルシャンの最高級ワインの一つ、「桔梗ヶ原メルロー シグナチャー」
 明治時代に福沢諭吉が「脱亜入欧」を叫んで以来、日本は西欧に追いつき追い越せをスローガンにしてきた。

 日本のワイン産業も例外ではない。数日前に日本で最も長い伝統を誇る山梨県のメルシャンワイン博物館を訪問した際、とりわけいくつかの資料が記者の目についた。1867年に江戸幕府を倒し、王政復古を成し遂げた明治政府の当初の悩みはコメ不足だった。悩んだ末に考え出したのが、コメから作る日本酒ではなくブドウから作るワインだった。すなわち殖産興業政策の一環としてワインの製造に着手したのだ。

 同じ年に日本最初のワイナリー「大日本山梨葡萄酒株式会社」が設立され、その社員二人がブドウの栽培法とワイン製造技術を学ぶために、ワインの本場フランスへと留学した。

 当時、二人の社員が留学に発つ前に書き綴った悲壮感漂う誓約書、留学中の日記、さらにフランスに辿り着くまでの航海地図などが、博物館には展示されている。嗜好食品であるワイン産業を開拓するプロセスは、まさに戦争でも行うかのように進められた。博物館には初期に使用されたワイン醸造用器具なども展示されている。これらの器具も二人が学んできた技術が土台となっていた。

 その後は日本の他の産業がそうだったように、日本のワイン産業も西欧の一流ブランドと肩を並べるために多くの努力を傾けた。

 最も困難だったのが、土質と気候が西欧とは異なる日本の地で、西欧と同じ品種のブドウを栽培することだったという。メルシャンは最適な栽培環境を求めて全国を回った。例えば、火山灰が積み重なって水はけのよい桔梗ヶ原では、メルローと呼ばれる品種を栽培した。最初は直営のブドウ畑も経営していたが、委託農家と提携して契約栽培形式でブドウを栽培する日本式モデルも開発した。トヨタが数多くの下請企業と一心同体となって技術開発にまい進したのと同じようなものだった。

勝沼=李志勲(イ・ジフン)経済部記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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