▲社会部=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)部長

 韓国文化財庁がおととい、徳寿宮復元計画を発表した。「日帝(帝国主義時代の日本)によって変形・歪曲(わいきょく)された徳寿宮の本来の姿を取り戻すための努力を本格的に開始する」(報道資料)というものだ。「日帝」という言葉の重さはあらゆる反論を抑えつける。

 徳寿宮復元の中核は、旧京畿女子高跡に再び「璿源殿」を建てることだ。璿源殿は歴代の王の御真(肖像画)が置かれた建物だ。徳寿宮の璿源殿は高宗の崩御後に取り壊され、昌徳宮に移された。「王室を辱めるための日本の蛮行」だと言われるが、「あるじのいない首都中心部の宮殿の近代的再構成」とする見方もある。こうした理由から今、昌徳宮には璿源殿が2つあるが、6・25(朝鮮戦争)直後に御真のほとんどが失われ、本来の機能も果たしていない。ところが、朝鮮王朝の3番目の璿源殿を旧京畿女子高跡に新たに作るというのだ。

 旧京畿女子高跡が宮殿として復元されれば、徳寿宮の広さは従来の6万平方メートルからさらに1万6000平方メートル広くなる。その区域も石垣の道を挟んで、大漢門から始まる「正殿」区域・「重明殿」区域・「璿源殿」区域の3カ所に増える。徳寿宮をはじめとするソウルの朝鮮王宮は5カ所あり、合計すると145万平方メートルに達する。しかし、朝鮮時代はもっと広かった。中国・北京の紫禁城(72万平方メートル)と比較すると、朝鮮の王宮がどれだけ大きいかが分かる。漢陽都城の広さ(1660万平方メートル)の10%に近い。当時は庶民には近づけない王室の独占空間だった。

 朝鮮王宮の特徴の1つは、末期にいっそう大きく、華やかになっていったことだ。興宣大院君の景福宮再建が経済と民生にどれだけ悪影響を及ぼしたかはよく知られている。30年後に景福宮を捨てて徳寿宮(当時の名称は慶運宮)を拡張した。宮殿建築に使う木材を供給するため苦難を強いられた江原道寧越の人々のことが歴史書に記録されている。「朝鮮は宮殿を建てているうちに滅んだ」とも言われる。この朝鮮宮殿拡張史の頂点にあるのが、復元が決まった徳寿宮璿源殿区域だ。

 徳寿宮は朝鮮宮殿のうち規模が最も小さいが、教訓は最も大きい宮殿だ。それも失敗の教訓である。ところが、「規模」を復元するだけで「教訓」は復元されない。「日帝のせい」という言葉で済まされているに過ぎない。

 徳寿宮は世界のどの国の宮殿にも見られない特異な構造になっている。米公使館(現・米国大使官邸)は宮殿の中にあった。北西にはロシア公使館、東には英国公使館があった。貞洞道の向かいにはフランス公使館があった。日帝を阻むために高宗が考えた構造だ。列強諸国の保護を受けたいと思ったからだ。そのような意味で、徳寿宮は「日帝のせいで完成した宮殿であり、日本のせいで解体された宮殿」であることには違いない。

 列強諸国を前後に配置した高宗は、宮殿の所々に「中立」の意志を込めていた。朝鮮宮殿の正殿は普通、景福宮の「勤政殿」や昌徳宮の「仁政殿」のように善政を誓う名前を付ける。だが、徳寿宮の正殿だけは中立の意志を込めた「中和殿」という名前だ。中立というものは自らを守れる力を持つ国だけに可能なことだ。高宗も富国強兵のためには西欧式改革が必要なことを知っていた。だからそうした願望を表現しようと新たな正殿を作った。西欧式宮殿の徳寿宮「石造殿」だ。建物で表現された高宗の生き残りに対する意識はそれほど強かった。

 しかし、政策は逆行していた。先駆的な官僚を排除した。王権と神権の調和という朝鮮の伝統もこの時代に途絶えた。勤王勢力を巻き込んで、「大皇帝陛下」はあらゆることを統率した。貨幣鋳造権をはじめとする国家財政を王室に集めた。前近代的「家産国家」に転落し、財政が破たんした。王権に対抗する意見を容認しなかった。西洋式近代国家とは正反対の道をひた走ったのだ。富国強兵は夢に終わった。他人のせいではない。

 高宗が日帝を避けて列強諸国の公使館の横に新宮殿を建てていた時、列強諸国は何をしていたのだろうか。英国は日本と同盟を結び、ロシアは日本と朝鮮の分割を論じ、米国は日本の朝鮮支配を容認していた。世間の流れを一足遅れで知った大韓帝国が「戦時中立」を宣言したのは、日露戦争直前の1904年1月21日だった。この宣言の効力は2月23日の強圧的な同盟(韓日議定書)で終わった。宣言から33日目のことだ。翌年、乙巳条約(日本では第二次日韓協約)が米公使館隣の徳寿宮重明殿で締結された。外交権が渡ってしまうと、米公使は日帝にお祝いの言葉を残して去った。宣教師ホーマー・ハルバートは「米国は別れのあいさつもなしに、最も侮辱的な方法で真っ先に韓国を捨てた」と言った。

 徳寿宮の復元は歓迎する。しかし、建物よりも記憶の復元の方が必要だ。この時代に必要なのは、力のない国の政治的「あがき」がどれだけむなしいものかを証明する「徳寿宮時代」の教訓だ。すべてを「日帝のせい」にして建物の工事にばかり力を入れるなら、公園の一画をちょっと広くするだけの作業に過ぎない。

社会部=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)部長

ホーム TOP