▲(1)(2)切り羽で採炭作業を行う朝鮮人。狭い坑道で体を斜めに横たえてつるはしを振るうという重労働に従事した。(3)16歳のとき日本へ連れていかれ、九州の炭鉱で強制労働させられた李興燮さんの生前の姿。/写真=国立日帝強制動員歴史館所蔵

 黄海道谷山で生まれた李興燮さん(1928-2014)は、父を助けて畑仕事をしていたが1944年5月に徴用されて日本に連れてこられ、光復(日本の植民地支配からの解放)後も遂に韓国へ戻ることができなかった。当時数え年で16歳だった李さんは徴用対象ではなかったが、太平洋戦争で窮地に陥った日本は、戸籍の年齢を操作して植民地の青年を連行した。父は、白い木綿の洋服を別れの贈り物として与えた。本書は、佐賀県の炭鉱に連れていかれた李さんが翌年1月1日に脱出・逃亡して解放を迎えるまでの、およそ1年3カ月間の記録を収めている

 少年は2週間の軍事訓練を受け、ふんどし姿で切り羽に送り込まれた。豆かすが半分以上という飯にたくあん2切れだけの食事はあまりに粗末で、ひどく腹が減った。故郷を離れるときに父がくれた荷物の検査で指輪が出てくると、状況は一層悪くなった。「戦争中にこんな物を隠して供出しなかった」という理由で「非国民」のレッテルを貼られ、外出禁止などの罰が加えられた。李さんは脱出を夢見るようになり始めた。逃げ出したものの捕まった朝鮮人が生ゴムの棒で殴られ、半殺しの目に遭うのを見たが、これ以上そこにいられなかった。

 正月、初めて外出した。その日に脱出した。復帰の時間が迫ると、炭鉱の反対側にある北の海岸へ向かうバスに乗った。漆黒の闇に身を隠しながらも、李さんは空襲で廃虚と化した光景に口をつぐんではいられなかった。「これが、われわれをこんな目に遭わせた日本の姿なのか!」

 しかし、李さんの手記には敵意は薄かった。「正義などみじんもない戦争に巻き込んだ日本人」と厳しく叱責(しっせき)しつつも、戦争に苦しむ日本人に向けた憐憫(れんびん)と普遍的な人間愛を共に強調した。炭鉱で彼が属していた組を指揮していた男性は、「佐賀県の地図が欲しい」という少年の言葉がどういう意味なのか知りつつも、知らないふりをした。むしろその翌日、地図を渡しながら「北に行けば軍港がある」と、それとなく教えた。厨房(ちゅうぼう)のとある少年は、いつも腹をすかせていた李さんの手にこっそりとおこげを握らせてくれた。逃げ出した李さんが隠れていた朝鮮人の飯場には、敗戦の3カ月前から日本の軍人たちが現れ、物乞いをした。李さんに食事をさせてくれた朝鮮人のおばさんは、「軍服を着た若者」にすぎない日本の青年たちの弁当箱にも、コメのご飯をぎっしり詰めて返してやった。

 日本が降伏した翌日、少年は帰国の船に乗るため福岡県北部にある博多港へ行った。ところが、故郷に向かうことはできなかった。押し寄せた朝鮮人は数十万人にもなるのに、釜山行きの船は毎日300人ずつしか乗せていかなかった。帰国を待っていては飢え死にしそうだった。李さんは「無理やり連れてきたのなら、なんとかして送り返してやるべきではないか」と心の中の怒りを漏らしたが、結局、当面の生活苦から解決しなければならなかった。その後、肉体労働をしながら九州を流れ歩き、1970年から大阪で金属回収業を営んだ。

 本書は、歴史の傷を克服するための加害者と被害者の共同努力が作り出した貴重な成果だ。77年に李さんの娘・ドンスンさんが通っていた中学校の担任、室田卓雄さんが家庭訪問にやって来た。李さんの徴用体験談を聞いた室田さんは、当時中3だった教え子に「お父さんの歴史を書いてみないか」と勧めた。その年の夏休みにドンスンさんが父親と向き合い、聞き書きしたものが本書の出発点だった。室田さんは「こんなことがあったのかと驚きだった」と文章をまとめ、翌年10月26日に小冊子を出した。その後、10年かけて李さんが自ら日本語の辞書を繰りつつ執筆した分を加え、『アボジがこえた海』というタイトルであらためて出版した。李さんのつたない日本語の文章を数人の教師がボランティアで校正した。その本を読んだ九州や大阪の中学生が、李さんの物語をステージ上で演劇にした。その間に大学の教員になった室田さんは、2006年から自分が在職する流通科学大学に李さんを招き、毎年2回、講演を頼んだ。高齢を押しての李さんの講演は、亡くなる2年前の12年まで続いた。強制徴用判決を巡って未来がないかのような不和を示す韓日両国の現実が、本書を読んでいて終始、残念な思いと共に重なって見えた。280ページ、1万5000ウォン(約1520円)

金泰勲(キム・テフン)出版専門記者

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