【新刊】鄭鍾賢(チョン・ジョンヒョン)著『帝国大学の朝鮮人』(ヒューマニスト刊)

 日本の敗戦後に祖国へ戻ってきた大韓民国臨時政府の要人たちは、建国の情熱こそ燃やしていたが、これを支える国家運営案や行政組織は持たなかった。そんな彼らの目に、総督府出身の朝鮮人官僚の姿が入ってきた。1945年12月17日、臨時政府の内務部長・申翼熙(シン・イクヒ)を委員長に「行政研究委員会」が発足した。総督府の高等文官出身者およそ70人が委員会に加わった。

 申翼熙が彼らの前で演説した。「愛国とか救国とか言って倭賊とは妥協せず、日本のやつらをつかまえたいと、右も左も分からずでたらめに動き回っていた人々、なので私自身、行政についての能力や手腕は毛ほどもないのは事実です。仮に、皆さんは(中略)いささか親切を倭人に示したとしても、解放された祖国に献身努力して建国の基礎と功労を打ち立てることにより…」

 解放後、窮地に陥っていた旧総督府関係者に降りてきた「救いの縄」だった。このうち10人は、憲法草案を作る専門委員としても活躍した。中心人物は、日本が作った帝国大学各校の法学部出身者。東京帝大出身の高秉国(コ・ビョングク)、任文桓(イム・ムンファン)、京都帝大出身の盧竜鎬(ノ・ヨンホ)、京城帝大出身の金竜根(キム・ヨングン)、兪鎮午(ユ・ジンホ)、尹吉重(ユン・ギルジュン)の計6人だ。帝大の卒業生らは親日だけでなく建国にも、このように強く影を残した。北朝鮮も同様だった。北朝鮮の憲法を起草した崔容達(チェ・ヨンダル)は京城帝大法文学部を卒業し、金日成総合大学の創立を主導したチョン・ドゥヒョンとシン・ゴンヒも帝大を出た。さらに、1954年に発足した大韓民国学術院のメンバー62人のうち39人は帝大出身だ。

 10年前に京都で初めて朝鮮人留学生の名簿に接した鄭鍾賢(チョン・ジョンヒョン)仁荷大学教授は、その後、帝国大学で学んだ朝鮮人の留学の実態と、植民地朝鮮および解放後の祖国に及ぼした影響を追跡し、本書を著した。鄭教授が見つけ出した資料によると、日本統治下の朝鮮の青年およそ1000人が、帝国大学に入るため日本本土へ渡ったと推定され、このうち784人が東京・京都・東北・九州など本土の七帝大を卒業した。帝大は京城と台北にも作られたが、朝鮮の青年たちは日本留学を好んだ。彼らは「朝鮮人謝絶」と書きつけられた下宿屋の前で鬱憤(うっぷん)を堪えつつ学んだ。

 植民地からやって来た留学生たちにとって、日本は巨大な矛盾の塊だった。留学生らは抗日と親日に分かれたり、あるいは解放されるまで二つの路線の間で曲芸を行ったりした。仁村・金性洙(キム・ソンス)の弟キム・ヨンスも、そうした人物の一人だ。1911年に15歳で関釜連絡船に乗った彼は、21年に朝鮮人として初めて京都帝大経済学部を卒業し、戻ってきた。京城紡織の第2代社長として満州まで事業を拡張、成功した民族実業家となり、利潤を社会に還元した。しかし太平洋戦争末期に日本が強要した各種の肩書や献金、そして学徒兵勧誘に動員されたことで解放後は反民族行為特別調査委員会(反民特委)に拘束され、無罪放免されるという苦難も味わった。一方、同じく京都帝大の史学科に通っていた宋夢奎(ソン・モンギュ)は卒業できずに獄死した。

 関東大震災で留学生およそ1000人が犠牲になったが、一方で彼らをかくまったり学費を出してやったりしたのもまた日本人だった。高等文官試験に合格し、総督府の官僚を経て解放後は農林部(省に相当)の長官まで務めた任文桓は、留学時代ひどく貧しかった。日本では人力車の車夫や便所掃除夫などの仕事を転々としつつ高校を卒業し、東京帝大へ進学したが、入学金を用意できず焦っていた。そのとき手を差し伸べてくれたのが、岩波書店の社長・岩波茂雄だった。任文桓を夜勤の社員として採用し、給与のほか夕食を支給して、休暇の時期になると別荘を勉強部屋として開放し、卒業式で着る服までプレゼントした。

 朝鮮総督府も学資を支援した。「死の賛美」を歌った尹心悳(ユン・シムドク)をはじめ、育種学者の禹長春(ウ・ジャンチュン)、後にソウル大学総長となる権重輝(クォン・ジュンヒ)などだ。著者は禹長春の例を挙げて、官費留学生を親日派と呼ぶことに疑問を投げ掛けた。父親の禹範善(ウ・ボムソン)は閔姫殺害事件に加担した後、日本へ逃亡したが、禹長春は朝鮮へ戻って韓国農業の基礎を固め、1959年の臨終の際には「祖国は私を認めた」という言葉を遺した。

 帝大は親日エリートの養成所にして、独立運動と建国の水源地でもあった。著者は「帝国大学という知識制度に関する近代韓国の経験を全て『悪』として道徳化し、それをえぐりだせば問題が解決するかのように考えるのは幻想」と指摘した。392ページ、2万ウォン(約1870円)。

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