「ベトナム戦争時も日本人記者が死んだが非難なかった」

フリージャーナリスト界の雄・野中章弘氏、自己責任論に憤慨
「伝えるべきことがあると判断したら飛び込むのがジャーナリスト」
「戦争の惨状を外部に伝え、平和実現しようとリスク受け入れる」

「ベトナム戦争時も日本人記者が死んだが非難なかった」

 アジアプレス・インターナショナルの野中章弘代表(62)は日本のフリージャーナリスト界を代表する人物だ。野中代表は1987年に独立系通信社「アジアプレス」を設立、30年近く同社を率いている。アフガニスタン・ミャンマー・東ティモールなどの紛争地・事故地域を中心に200本を上回るニュース・ドキュメンタリーを製作してきた。現在は早稲田大学ジャーナリズム大学院教授も兼任しており、今も今秋公開を目指して3年半をかけて福島原発事故後も福島に残っている人々のドキュメンタリーを撮影している。

 「フリージャーナリストたちはなぜ、あえて危険地域に行くのか」という質問に、野中代表は「ジャーナリストの使命」を語った。「なぜジャーナリストになったのか、という質問と同じことだ。現場に行かなければ何が起こるかを知ることができない。もちろん、後藤健二さんのように有能な人であれば、日本のテレビ局に自身が作った番組を供給する機会も多いだろう。しかし、戦場ジャーナリストが採算の取れる仕事でないことは誰もが知っている。後藤さんはこの仕事を生計を立てる手段ではなく、人道主義や使命感という次元で考えていたことだろう」

 野中代表はさらに「ベトナム戦争やカンボジア戦争では日本人記者13人が命を失った。フリージャーナリストもいたが、共同通信や日本経済新聞など主なメディアの記者たちも含まれていた。ジャーナリストたちは当時、危険を冒してもフロントライン(最前線)に行かなければならないという使命感が強かった。少なくとも『なぜそんな所に行くのか』と非難する人はいなかった」とも語った。

 ベトナム戦争が終わってからのこの40年間はどうだったのだろうか。野中代表によると、日本人ジャーナリスト8人が戦場で取材中に死亡し、そのうちの6人がフリージャーナリストだった。残り2人は日本共産党機関紙「赤旗」の記者とロイター通信の写真記者で、日本の大手メディアの所属ではなかった。

 「今の日本は社会的なムードも、ジャーナリスト自身の考え方も以前とは変わった。大人しくなった、あるいは外部に対する強烈な関心・好奇心が減ったと言うべきだろうか。システムの問題もある。報道機関の管理・経営面が強くなり、記者が一部、サラリーマン化してしまったようだ。30年前なら第一線の記者が『リスクは自分が負うから戦場に行きたい』と言えば送り出してくれたが、今は会社が驚いて行かせようとしない。問題が起こればいろいろと困るからだ」

 だが、野中代表は「そこに行かなければならないと判断した時、リスクを負っても行かなければならないのがジャーナリストの宿命だ。後藤さんは惨状を外部に伝え、平和と人道主義を実現するため戦場に行った。現地の惨状についても、全てが現地の人々の自己責任だから助ける必要がないと言ってもいいのだろうか。自己責任論だけを強調し、後藤さんを非難する社会なら、その社会が変なのだ」と言い切った。

 野中代表は「イスラム国による後藤さん殺害に、日本のフリージャーナリストたちも衝撃を受けた」と話す。2012年8月、女性フリージャーナリストの山本美香さん(当時45歳)がシリアの内戦取材中に銃撃され死亡しているが、今回同じシリアでまた日本人フリージャーナリストが命を断たれたのだ。「シリアやイラクの近くで活動する日本人フリージャーナリストは5-10人程度だが、今回の事件でシリア内部の取材が全面的に中断されただけでなく、今後の見通しも不透明になった」

崔元碩(チェ・ウォンソク)記者
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