慰安婦合意:1991年朝日新聞の金学順さんインタビューから始まった「24年間の戦い」

紆余曲折を経た慰安婦交渉
金泳三政権のときに河野談話などで進展…日本の右翼の反対運動で後ずさり
李明博政権のときは妥結直前で白紙に

 従軍慰安婦問題が浮上したのは1991年8月、故・金学順(キム・ハクスン)さん(当時67歳)が、朝日新聞のインタビューを通して慰安婦の被害事実を初めて証言してからだ。17歳のとき日本軍に連れて行かれた金さんは「日本軍は慰安婦に関与しなかった」という日本政府の偽りの発表を聞き、自分の過去を公開することにした。その後、記者会見も行い、被害者およそ200人の証言が相次いだ。

 翌年、日本の加藤紘一官房長官が、実態調査を通して日本軍が慰安所の運営に関与したという事実を初めて認めた。金泳三(キム・ヨンサム)大統領は92年、「被害者に対する金銭補償はこちらの仕事、日本は真相究明を」という基本的立場を明らかにした。その後、慰安婦動員の強制性を認めて謝罪する河野談話(93年)が出てきた。日本の教科書に慰安婦の事実が初めて記述され、関連基金が創設されたのもこの時期だ。

 しかし97年、「新しい歴史教科書を作る会」など日本の右翼団体が、慰安婦について認めたことを「自虐史観」と規定して反対運動を繰り広げたため、後ずさりが始まった。右翼側は、65年の国交正常化のとき「両国国民間の財産と権利の問題は解決した」とする条項を持ち出し、慰安婦関連の賠償もこれ以上取り上げてはならないという論理を展開した。

 韓国内外の市民団体の努力で、07年に米国連邦議会下院本会議で、日本に対し慰安婦関連の公式謝罪を要求する決議が採択された。08年には国連人権委も「責任を認めるべき」と日本を圧迫した。韓国の憲法裁判所は11年「韓国政府が被害者の請求権紛争を解決しようと努力しないのは違憲」という決定を下した。

 韓日両国の意見が最も近くなったのは、李明博(イ・ミョンバク)政権のときだった、日本の首相による謝罪の手紙、駐韓日本大使と被害者との対面および直接謝罪、被害者への賠償などを内容とする「佐々江案」と「斉藤案」が12年に登場した。しかし日本の政権が自民党の安倍晋三政権に移ったことで、これらの案は白紙となった。しかし米国各地に慰安婦記念碑・少女像などが立てられ、慰安婦問題は国際社会で「普遍的な女性の人権」問題へと拡大した。朴槿恵(パク・クンヘ)政権になり、14年4月から韓日局長級協議が初めて稼働、1年8カ月経て今月28日に慰安婦交渉がひとまず妥結した。

鄭始幸(チョン・シヘン)記者
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