科挙に2回も落ちた23歳の袁世凱が逆転のチャンスをつかんだ場所が、朝鮮だった。1882年の壬午(じんご)軍乱で朝鮮情勢が不安定化するや、清は呉長慶率いる3000人の軍隊を派遣した。仕事がなかった袁世凱は、父親の友人だった呉長慶の部下として朝鮮にやって来た。勉強はいいかげんだが武芸は熱心だった袁世凱は、すぐさま能力を認められた。壬午軍乱の責任者と目された興宣大院君を清に連行し、大院君勢力を討伐する戦いで大いに功績を立てた。
2年後の甲申政変では清軍を率いて昌徳宮に入り、高宗を「保護」する措置を取るとともに、日本軍の支援を受けて開化派が断行した政変を粉砕した。翌年末、袁世凱は清の実力者たる北洋大臣・李鴻章の指揮を受ける駐箚(ちゅうさつ)朝鮮総理交渉通商事宜に任命された。その後、1894年の東学農民運動で日本軍が進駐し、清の勢力が駆逐されるまで「朝鮮の総督」のように権力を振るった。
「上典」(奴隷の主人)役の袁世凱のせいで、高宗は一日たりとも気の休まる日がなかった。ロシアの力を借りて清をけん制しようとしたのも、そのせいだ。これに気付いた袁世凱は「兵が500人もいれば国王を廃することができる」と高宗を脅した。
袁世凱が朝鮮で活躍した12年間は、韓中日が近代国家樹立のため「時間との競争」を激しく繰り広げていた時期だった。その絶体絶命の時期に、袁世凱は、朝鮮が西欧に外交使節を送ることにすら干渉し、足を引っ張った。アヘン戦争後、西欧と不平等条約を締結した清は、事実上唯一の従属国として残っていた朝鮮を帝国の囲いの中にとどめておくため、ありったけの力を用いた。属邦の内治・外交の独自性を保障してきた伝統的な中華秩序からは随分と外れた、逸脱行為だった。