奈良・石上神宮の七支刀が語る古代日本と百済の緊密な関係

 1874年、奈良・石上神宮の倉庫で、刃の両側に3本ずつ互い違いに枝が出ている、長さ74.9センチの刀が発見された。儀礼用とみられるこの刀は、厚いさびで刀身が覆われていたが、ところどころに金色の文字が見えた。国学を学んだ宮司の菅政友が、のみでさびを削り落とすと、表に34字、裏に27字、計61字の文章が現れた。

「泰○四年五月十六日丙午の正陽(真昼)に百回練った鉄で七支刀を造った。百兵を辟(=避)けることができ、侯王に与えるのがふさわしい。△△△の作」(表)。「先世以来、いまだこのような刀はなかった。百済の王世子が(中略)故(ことさら)倭王のために造ったので、後世に伝え示すべし」(裏)。

 七支刀が作られた「泰○四年」については、さまざまな解釈が出たが、東晋の年号「太和四年」とみて、百済の近肖古王の在位期間に当たる369年と見なす学者が多い。これは、百済が東晋に使臣を送って外交関係を結んだ372年より3年早い。一部の学者は、「泰○」を百済の年号とみて、腆支王4年(408年)もしくは武寧王4年(504年)に比定している。

 七支刀の性格については、さまざまな学説が提起された。日本の学者は、当初「神功皇后の世に倭国が任那7国を平定し、その地を百済に任せたことに対する恩返しとして、百済王が七枝刀をささげた」という『日本書紀』の記録を根拠に「献上説」を主張した。しかし『日本書紀』の記録には事実をゆがめた部分が多く、信用し難いという反論に遭った。韓国の学者は、逆に「供侯王」」「伝示後世」などの文言からみて、百済が倭に「下賜」または「贈与」したものと主張する。 いずれにせよ、百済の王世子が倭王のために作った七支刀は、百済と倭国が緊密な関係にあったことを物語っている。

李先敏(イ・ソンミン)記者
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  • ▲奈良県石上神宮が所蔵する七支刀。1953年、日本の国宝に指定された。

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