【コラム】1964年の朴正煕と2018年の文在寅

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 数日前に出会った朴正煕(パク・チョンヒ)政権下の重鎮は「朴元大統領が任期初めの3年で新しい経済司令塔である経済企画院長官を7人も変えた裏事情について、現政権の人々が学んでくれたらと思う」と話した。同重鎮が言おうとしているのは、何も「漢江の奇跡」のようなそらぞらしい成功ストーリーではなく、朴元大統領が経済問題で泥沼に陥った政権発足初期の失敗談だった。

 朴正煕は1961年5月16日、公約第4条で「民生苦の解決」と「自主経済の再建」を掲げた。「自主経済」とは、当時新生独立国の間ではやった一種の「民族経済論」だった。第1次経済開発5カ年計画は、援助資金が減った分、輸入を減らす代わりに、国内生産でこれを賄って自立するのが骨子だった。そのためには、輸入代替産業を育成しなければならなかった。ところが当時の韓国は、産業基盤と資本が非常に乏しかったのだ。

 1962年にたんすの中の資金を引っ張り出して開発資金として使うために、貨幤改革を断行したものの、失敗に終わった。朴正煕は政権発足直後の3年間、経済部処(日本の省庁に相当)を総括する経済企画院長官を実に7回も入れ替えるほどの焦りを見せた。これに対して、同重鎮は「政策の方向性が間違っていれば、いくら人を入れ替えたところでどうにもならない」と冷静に振り返る。

 朴正煕は結局1964年にあれだけ固執していた民族経済論から脱却した。輸出主導型工業化政策は、こうした試行錯誤の揚げ句に見いだされたものだった。朴正煕が軌道修正した結果は、われわれが知っている通りだ。韓国の1人当たりの国民所得は1961年の85ドル(現在のレートで約9400円)から昨年には2万9745ドル(約330万円)へと350倍に膨らんだ。国民の血と汗と涙の努力で勝ち取った成果だが、朴正煕が引き続き閉鎖的民族経済に固執していたら、韓国は今ごろ第3世界への道をたどっていたかもしれない。

 実際に1961年に韓国と所得水準が同程度にあったケニアは、今も1600ドル(約17万7000円)台にとどまっている。朴正煕の方向転換について当時の参謀たちは「半生状態の政策で試行錯誤した後、果敢に方向を転換した決断」と語る。その後も官僚層の内部や業界からの反発は激しかったものの、朴正煕はその後の3年間で財務長官を5人も入れ替えながら、市場の自由化をしつこく追い求めていった。

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