日本文化開放に対する韓国の恐怖感、市場が自然に解消

【特集】日本大衆文化開放20年

 韓国では長年日本の大衆文化が開放されてこなかった。既に若者の間でX JAPANのブームが起き、中高年は「ブルー・ライト・ヨコハマ」を歌っていたが、誰も開放を実行に移さなかった。

 福祉事業を行うハートハート財団の呉志哲(オ・ジチョル)理事長(69)=写真=は、1988年に文化観光部(省に相当)の文化産業局長として、日本の大衆文化開放の実務を主導した。金大中(キム・デジュン)元大統領は大衆文化開放を検討する強い意志を持っていた。98年の新年報告で開放を検討すると伝えると、大統領から「恐れずに臨んでもらいたい」との指示があったという。

 国民感情に反しない「段階的開放」が課題だった。「急速に韓国文化を占領するのではないかという恐怖があった」からだ。低俗な日本文化が押し寄せる懸念も大きかった。韓国政府は「良質な文化だけを受け入れる」として、第1次開放では世界の4大映画祭の受賞作のみを開放した。黒澤明の「影武者」、今村昌平の「うなぎ」が入ってきたのはその時だ。99年の第2次開放では「鉄道員(ぽっぽや)」「ラブレター」「リング」などが公開された。

 韓国文化界の反応は前向きなものだった。当時は1993年の「風の丘を越えて/西便制」、97年の「接続 ザ・コンタクト」の成功で韓国側が自信感を抱いていた。ゲームも同様だった。日本の強みであるビデオゲームとは異なり、当初からオンラインゲームに参入していたNCソフトの金沢辰(キム・テクチン)代表、ハンゲームコミュニケーションの金範洙(キム・ボムス)代表(当時)は、日本のゲームの進出を気にも留めないといった反応だった。

 呉理事長は「大衆文化開放が韓国文化の競争力を高める契機になった」と評した。「正式に輸入されるようになり、パクリの文化が消えた」とも話した。2002年の第3次開放が実施されるころには、NHKが「冬のソナタ」「秋の童話」を輸入して放送した。大衆音楽産業の変化はすさまじかった。呉理事長は「当時は歌手育成システムを持つ日本のエイベックスと協力しようとしても困難だった。(プロデューサーの)李秀満(イ・スマン)は安室奈美恵を見て、BoAを育てた。現在は防弾少年団(BTS)のように韓国で完璧な商品を市場に送り出せるようになった」と指摘した。呉理事長は「文化競争力は政府の政策ではなく、自然に融合が進む市場に任せるべきだというのが20年間の教訓だ」と振り返った。

ペク・スジン記者
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