1400年前の百済石仏にまつわる秘密とは

 全羅北道益山蓮洞里の石仏寺には、「胴と頭が別々」の百済の仏像がある。宝物第45号「益山蓮洞里石造如来座像」。高さ1.5メートルに達する仏身に加えて光背と台座まで備えているが、威風堂々とした体の上にある顔はどこか不自然。何者かが新しく作ってセメントで付けたからだ。

 現存する百済の仏身の中では最も大きくて古いこの立体石仏が、台座を覆っていた仏壇を取り去り、完全な姿を披露する。文化財庁は「木製の仏壇を強化ガラスに換える整備作業を来月まで実施する」と発表した。この仏身は、衣の裾が台座を覆う「裳懸座(もかげざ)」形式だが、本堂を建てる際に作った仏壇が台座を覆っており、衣の裾は見えない状態だった。

 この仏身は、百済の仏教彫刻の白眉に挙げられる。キム・ジョンヒ円光大学教授は「光背の挙身光は瑞山磨崖三尊仏に見られる百済様式で、日本の法隆寺金銅釈迦(しゃか)三尊像の光背にも現れ、百済様式が日本の飛鳥時代まで影響を及ぼしたことが分かる」と語った。

 問題は仏頭。村には、この石仏が丁酉(ていゆう)再乱(慶長の役)の際に倭軍を防いだ、という話が伝えられている。破竹の勢いで攻め上っていた倭軍が金馬面で濃い霧に遮られ、倭将はこれが仏像の威力だと信じ、刀で石仏の首を打った-というのだ。キム教授は「朝鮮王朝の抑仏政策で損なわれた可能性、自然災害で仏像が転げ落ちて首が折れた可能性もある」として「現在の顔は、1900年代に何者かが作って載せたものと推定される」と語った。

許允僖(ホ・ユンヒ)記者
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  • ▲1989年に撮影した益山蓮洞里石造如来座像。/写真=文化財庁

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