1992年の日付・状況もきちんと…李容洙ハルモニの記憶は鮮明だった

 李さんは、記者会見をする過程で、76年前に慰安婦として連れていかれたころの記憶も引き出し、細かく説明した。李さんは「韓国の年齢で16歳、満では14歳。あのころ、姓を持っていなければ配給がもらえなくて、姓を『やすはら』に変えた」「学校は日本の学校の3-4学年に通い、片仮名を習った。(日本軍の将校が)『やすはらとしこ』と(名前を)付けて、私も同じ被害者だということを知った」と語った。

 李さんは、日本人から虐待され、つらくて「オンマ(お母さん)」と大声で叫んだ後、耳鳴りがして今でも苦痛だ-と打ち明けた。次いで、挺対協がそのような被害者の話をきちんと聞いてくれたことはないという主張を、当時の状況説明と共に繰り広げていった。李さんは「挺対協というのであれば(こうした話を)おばあさんたちに尋ねて、明らかにしてあげなければならないのに、おばあさんを座らせて証言を取ったことは一度もない」とし「単に集まって遊んで、ご飯を食べるところで『どこに行ってきたのか』と尋ね、答えた内容を持っていって(挺対協は)本を出した」「1993年から城北洞に家があった。(そこに)本を置いて、6500ウォン(現在のレートで約570円。以下同じ)で売っているのを見た」と語った。

 また「挺対協の博物館を西大門刑務所に建てると言った。そのとき、パク・キョンリム氏と私のおい夫婦と行って、15万ウォン(約1万3000円)もらって挺対協で証言した」「尹当選人は600万ウォン(約52万円)を募金で集めて私を米国に連れていこうとした」と説明した。

【写真】記者会見を行う李容洙さん

イ・ドンフィ記者
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