【コラム】私は平壌冷麺を知らない

6・25戦争以前から平壌冷麺は韓半島全域に普及していた

【コラム】私は平壌冷麺を知らない

 出張で全羅道に行った人が、現地でおいしい平壌冷麺の店を見つけられなかったという。6・25戦争のときに韓半島北部から避難してきた人々が、ソウルから釜山へと移動する際に平壌冷麺を広めたため、(ルートから外れている)全羅道にはあまり店がないのではないか、という推測をその出張者から最近聞いた。今日はこの話を一つ一つ検証してみたいと思う。

 私の父方の親戚は現在の北朝鮮・平安北道の亀城という所で暮らしていた。しかし日本が降伏し、韓半島北部に共産主義政権が発足すると、父方の親戚はスパイを雇って数人ずつ38度線の南側に渡ってきた。仲介者を雇って親戚を韓国に連れて来る作業を主導した私の祖父は、政府機関に勤務し、転勤で全国各地を渡り歩いた。釜山で働いていたときのこと、ある日平壌冷麺が無性に食べたくなり、真夜中にジープを運転して全羅道の光州まで行って食べて帰ってきた。平安道出身の祖父が真夜中にわざわざ飛んでいくほどおいしい平壌冷麺の食堂が全羅道光州にあったということだ。

 光州だけではない。忠清道と全羅道の境界にある群山、そして黄海道と隣接する仁川にも素晴らしい平壌冷麺の店が多い。光州、群山、仁川など韓国の西部地域においしい平壌冷麺の店が多い理由は、6・25戦争のとき、LST船(戦車上陸艦)が北朝鮮の西海岸地域の避難民を乗せてこのエリアで降ろしたからだ。咸興冷麺が咸興からLST船に乗って韓半島の東海岸沿いを釜山まで南下した一方で、平壌冷麺は平安道と黄海道からLST船に乗って韓半島の西海岸沿いを仁川、群山、木浦、そして光州へと伝わったのだ。

 最近では平壌冷麺といえばソウル、咸興冷麺といえば釜山という公式があるようだが、かつてはそうではなかった。

 それでは、はたして平壌冷麺は6・25戦争のとき避難民が初めて韓国に紹介したのだろうか? 1931年5月17日付の朝鮮日報には、全羅道光州市内で火災が発生し、チョイル冷麺屋が被害に遭ったという記事が掲載されている。朝鮮王朝時代から有名だった平安道の平壌冷麺とは別に、植民地時代に既に平壌冷麺は韓半島全域で食べられていたのだ。

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