エルサレムに「日本のシンドラー」の名冠した広場誕生

 杉原がルーマニアのブカレスト公使館にいた1945年8月に日本は降伏した。そして、日本が敗戦の後遺症に苦しんでいた1947年4月に家族と帰国した。2カ月後に外務省に呼び出された杉原は辞任圧力を受けて仕事を辞めた。その後、米軍のPX(売店)などで働いて生計を立てた。杉原は人々に忘れられていったが、「命のビザ」をもらって救出されたユダヤ人たちは杉原を捜し続けた。その中の1人が10代でビザをもらって脱出して、後にイスラエルの外交官になったヨシュア・ニシュリだった。ニシュリは、イスラエルの外交当局を通じて杉原を見つけ出し、1968年8月に杉原と再会した。この時、ニシュリが28年前に発行されたボロボロのビザを手にして涙をこぼす姿が話題になった。杉原の善行はこの時から広く知られるようになった。

 イスラエル政府は1969年に杉原に勲章を授与した。これに先駆けて、イスラエルの地中海沿岸都市ネタニヤに杉原の名を冠した「チウネ・スギハラ通り」が作られた。中部の都市ベト・シェメシュにも杉原を記念して植えた木がある。それに加えて今回、首都にその名を冠した記念広場が誕生したもので、イスラエルは杉原を格別に礼遇している。2000年に彼の故郷・岐阜県に建設された「杉原千畝記念館」は、日本を訪れるイスラエル人観光客が必ず行く観光コースとして親しまれている。しかし、「人類愛を示した彼の行動を、日本の政権は政治的に利用している」という指摘もある。2015年1月に当時の安倍晋三首相はイスラエルのホロコースト記念館を訪れた時、第二次世界大戦における自国の戦犯の蛮行に言及せず、杉原について語った。これに対して、「歴史問題をうやむやにするためではないか」という批判が出た。

■「アジア・パワー指数」1位は米国、韓国7位…日本は?

鄭智燮(チョン・ジソプ)記者
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