【萬物相】詩人・金芝河

【萬物相】詩人・金芝河

 民青学連事件で死刑囚になった金芝河(キム・ジハ)は、獄中で詩「灼(や)けつく渇きで」(1975)を発表した。7年後、創批から同タイトルの詩集を出すと、当局はすぐ翌日に禁書の措置を下した。書店はリヤカーに詩集を積み、大学に入って売るというやり方で対抗した。その時代、詩人・金芝河は民主化の長征の先鋒(せんぽう)を務める闘士だった。青年たちは金芝河の「五賊」や「灼けつく渇きで」を祈とう文のようにそらんじた。

 そんな金芝河が、1991年4年の明知大生・姜慶大(カン・ギョンデ)の死とその後相次いだ焼身事件を契機として、同志たちと決裂した。進歩陣営は、メディアに「死の礼賛をやめよ」と寄稿した金芝河を変節者として追及した。当時、大学図書館に連日張り出された壁新聞は、話法がおかしかった。表側には「これ以上死ぬな」と書いていたが、裏側では、焼身を図った人々を烈士と称賛した。どちらが本心なのかと尋ねたかった。

 金芝河は後日、「死刑囚として6年近く服役したが、民主闘士になる考えはなかった」と述懐した。監獄の中で彼は、命の思想をはらみ、熟成させた。朴正煕(パク・チョンヒ)政権の維新に対する抵抗も、死の礼賛に向けた怒りも、その根は「命が尊重される世の中」に向けた悲願だった。世の中を組分けして見る人々にとって、そんな金芝河は理解し得ない人物だった・獄中で朴正煕死去のニュースを聞いて「さようなら」と言ったことも、2012年の大統領選挙で独裁者の娘を支持したことも、裏切りとしか映らなかった。

 金芝河は生涯、詩の力を借りて世の中を変えたいと考えた。「詩とは闇を/闇のままに書きながら、闇を/修正するもの//書きながら/自分もひそかに陽光を導くこと」と記した。韓国現代史の渦の中に身を投じ、内面に深い傷を負って倒れ、辛うじて立ち上がるということを繰り返した。同志と信じていた人々の非難にショックを受け、精神病院へ12回も入院し、生涯頭痛に苦しんだ。

 金芝河が米国を見て回り、韓国へ戻ってきて2007年に旅行記を出したとき、個別に彼と会ったことがある。最初は「大きく開けたアリゾナの砂漠を走ったら、ひどかった頭痛が消えた」と豪快に笑った。しかし少しすると、胸の内を打ち明けた。「私を嫌う人々が空港に押し寄せて、なぜ米国に行ったのかと非難してきたらどうしようと心配で、帰国する飛行機の中で頭痛がぶり返した。ところが入国場には誰もおらず…。どれほどほっとしたことか。痛みがすっきり消えて」。金芝河は弱い人だった。「こんな人が抵抗詩を書いて死刑囚になり、一時は同志だった人々に変節者とまで言われたのだから、どれほどつらかったろうか」と思った。詩人・金芝河が8日に永眠した。敵味方に分けることも争いもない場所へと旅立った。今こそ安らかにと願う。

金泰勲(キム・テフン)論説委員

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