関東大震災100年:小さな石碑だけが残る100年前の「関東の惨劇」(下)

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 「ほうせんか」が集めた目撃者らの証言によると、悲劇は地震の起きた1日の夜から始まった。当時尋常小学校1年生だったイケガミ・キミコさん(『ほうせんか』の集めた証言。以下同じ)は「1日の夜、家々に『朝鮮人が300人も集まってきてるので、男は全員出てこい』という命令が下り、少したってから悲鳴が聞こえた」と語った。こういう証言もある。「1日の夜、四ツ木橋の近くの堤防に避難したが、朝鮮人騒動でごたごたしていた。次の日、同じ場所に行ってみると死体が20-30体あった」(トミヤマさん、仮名、当時22歳)、「殺された朝鮮人を12-13人見た。そのうち2人は女性だった。はっきり目で見た」(マツダ・ハルオさん、当時12歳)

【写真】1923年の関東大震災当時、日本警察に逮捕・収容された朝鮮人たちの様子

 当時24歳だったオノ・シンタロウさんは「東京から来た避難民たちが『朝鮮人が(東京で)暴動を起こした』と伝えた。自警団が結成され、日本刀や竹やりで武装し、朝鮮人を殺した。荒川の堤にある四ツ木橋の近くに朝鮮人の死体が山積みになるほどだった」と証言した。

 9月2日から3日ごろ、戒厳令に基づき日本軍が荒川付近に進出したことで、被害が拡大した。部隊名を記憶している証言はなかった。「朝鮮人暴動」という流言飛語を信じていた日本人らが戒厳軍の進出に「万歳」を叫んだという目撃談はある。日本軍は四ツ木橋の対岸で銃を持ち、移動を規制した。天台宗木母寺の僧侶、マイズミ・ミツタカさんは「そのとき小学5年生だったが、単発的に銃声を聞いた」「軍人たちが、アシ原に隠れる朝鮮人を見つけて撃ったのだった」と語った。当時24歳だったオガワさん(仮名)は「朝鮮人22-23人を堤防の下に見下ろし、すぐ後ろから銃で撃って殺した」「みんな(軍人たちが)四ツ木橋で(朝鮮人を)殺すのを見た。女性も2、3人いた。ひどかった」と証言した。

 虐殺の後、日本政府が隠蔽(いんぺい)を行った状況も残っている。朝鮮人虐殺が続いていた9月3日から5日にかけて、戒厳軍が警察署で日本人労働運動家10人と自警団員4人を殺害する、いわゆる「亀戸事件」が起きた。同年10月、この事件が新聞で報じられ、遺族は遺体の引き渡しを要求したが、埋められた場所が朝鮮人虐殺事件の起きた四ツ木橋の堤防だった。同じ場所に遺体を捨てたのだ。「ほうせんか」の西崎代表は1923年11月14日付の報知新聞を見せてくれた。タイトルは「骨も掘れずに遺族引き還す 亀戸事件死体遺棄の現場は憲兵や警官に守られて」だった。西崎氏は「当時(批判が強まると)11月12日と14日、警察は2度にわたって、トラックまで動員して四ツ木橋付近を掘った。このとき、朝鮮人の遺体も全て処理したものとみられる」とし「遺族が『遺骨を返してくれ』と要求したのに、警察署長は『100人ほど一緒に埋められていて誰が誰の骨なのか分からず、返してやるのは難しい』と答えた、という記事も残っている」と述べた。当初、日本人の遺体のみ隠蔽しようとしたが、掘ってみると朝鮮人の遺体まで出てきてあまりに数が多く、14日に再びトラックを動員したのだ。

 後日公開された当時の極秘文書にも、これについての証拠がある。国会図書館憲政資料室の「斎藤実文書(斎藤実が朝鮮総督を務めた1919年から1927年、1929年から1931年に記録された公式文書)」には、朝鮮総督府警務局が1923年12月に各警察署へ送った「極秘文書」が収録されている。指示の内容は「埋めた遺体は早く火葬すること」「遺骨は日本人・朝鮮人の区別がされないように措置すること」「起訴された事件で被害者が朝鮮人である場合には早急に、遺骨をきちんと分からないくらいまで処理すること」などだ。こうした組織的な隠蔽の結果、関東大震災で虐殺された朝鮮人が何人だったのかすら、まだ明らかにされていない。

 荒川の虐殺現場である四ツ木橋は、既に撤去されて存在せず、その隣に「木根川橋」が架けられた。市民団体「ほうせんか」は、9月2日に木根川橋の下で追悼行事を開く計画だ。毎年開いてきた追悼式だ。一時は数十人いた「ほうせんか」のメンバーは、年を取ってあまり残っていない。証言してくれた目撃者も既に世を去った。虐殺現場から東京を望むと、韓国人に人気の観光名所である高さ600メートルの「スカイツリー」、その展望台だけが見えた。

成好哲(ソン・ホチョル)東京支局長

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