「伊藤博文が高麗青磁を熱心に収集したことを知っていますか? 最大の『故買屋』だったのです。『高麗の磁器が出てきさえすれば、持ってこい』と言ってとにかく買い入れたので、高麗青磁ブームが起こり、韓国全体が盗掘の天地になりました」

 韓国草創期に至る美術市場の発展プロセスが一目で分かる本が出た。キム・サンヨプ文化財庁文化財鑑定委員(52)が先月出版した『韓国近代美術市場史資料集』(景仁文化社、全6巻)だ。植民地時代の1930年代から光復(日本の植民地支配からの解放)後の50年代にかけて刊行された競売・展示図録など、約70種類の美術市場関連資料を集め、写真版で編集した。モノクロ写真で収録された作品だけでも3160点、目録1万5980点という、すさまじい分量だ。

 開城から高麗青磁が出土し、初代韓国統監伊藤博文がこれを買い入れると、京城(現在のソウル)で高麗青磁の競売が活発になり、そのせいで盗掘人がはびこったことが確認された。42年、京城美術倶楽部(クラブ)の佐々木兆治社長は『朝鮮古美術業界20年の回顧-京城美術倶楽部創業20年記念誌』にこのように記した。

 「伊藤公は、昔の高麗陶器を熱心に収集し、東京に持って帰った。一度は帰京することになった伊藤公が、停車場へ出迎えにきた人々にあいさつをして『列車に朝鮮のみやげがあるので、持っていけ』と言うので、出迎えにきた人々は、口が割れた瓶や粉々になった青磁の鉢を分け合い、持って帰った」(6巻、54-55ページ)。これについてキム委員は「当時、開城の出土品は事実上全て盗掘品だった。伊藤統監の威勢を背に、盗掘人が横行した」と語った。

 京城美術倶楽部は、22年に設立された朝鮮初にして唯一の美術品競売会社だ。当時の競売図録には、韓国文化財の名残が数多く収められている。これまで知られていなかった古美術品の流通経路も確認された。

 檀園・金弘道(キム・ホンド)=1745-1806ごろ=の「豹(ひょう)皮図」は、植民地時代に競売にかけられたものの、その後北朝鮮の国宝になったという事実も新たに明らかになった。1941年9月28日、京城美術倶楽部で開かれた「府内某氏愛蔵品競売会」に「伝檀園筆」として出品された。この絵は現在、平壌の朝鮮美術博物館が所蔵する北朝鮮の国宝だ。キム委員は「当時、競売を通じ日本に渡ったが、在日本朝鮮人総連合会関係者を通して北朝鮮に渡ったと推定される」と語った。2006年、ソウルの国立中央博物館で開かれた「北方の文化遺産-平壌から来た国宝」の展示に出品され、韓国で初めてその存在が知られた。キム委員は「植民地時代の競売には『金弘道の絵と推定』と出ていたが、北朝鮮で金弘道の本物と判断されたとみられる」と語った。

 現在は行方が分からない作品もある。1936年10月11日、京城美術倶楽部の競売会に李寅文(イ・インムン)=1745-1821=の山水画が出品された。朝鮮総督府の高官、小宮三保松の所蔵品で、作品には秋史・金正喜(キム・ジョンヒ)の収蔵印も残っていた。キム委員は「楽善斎(朝鮮王室)→秋史・金正喜→小宮という収蔵家を経て、おそらく日本の個人収集家に売られたのだろう。本書は、植民地時代に売られて所在が分からない韓国文化財を追跡する1次資料になるだろう」と語った。

 10年にわたって続いた「安堅(アン・ギョン)論争」にも終止符が打たれた。キム委員は、京城美術倶楽部が36年に発行した競売図録を根拠に、「夢遊桃園図」の安堅が描いたといわれていた「青山白雲図」が、実は中国・宋代の絵に印章と文を添えたものだということを明らかにした。

 キム委員は「本書は『むしろを広げた』だけ。今後、これらの資料を通していろいろな話の種が見つかり、失われた文化財の所在把握もできる公論の場が広がることを願う」と語った。

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