「結果的には私の名前が受賞者リストに上がったが、一人でできる研究ではなかった。本当に『先生』のご功績が大きいと思う」

 これは、今年のノーベル物理学賞受賞者に選ばれた東京大学宇宙線研究所の梶田隆章教授が6日、受賞の知らせを受けた直後の記者会見で述べた言葉だ。

 梶田氏は東京大学大学院在学時、ノーベル物理学賞を2002年に受賞した小柴昌俊同大学特別栄誉教授の指導を受けた。梶田氏が言及した「先生」とは当然、小柴氏のことだと思った人が多いだろう。しかし、梶田氏が言った「先生」は別の人物だった。生前、ノーベル賞の有力候補と言われたほど優れた学者だったが、2008年に直腸がんでこの世を去った戸塚洋二東京大学特別栄誉教授のことだ。正確に言えば、梶田氏よりも先に小柴氏の研究チームに入った「先輩」に当たるが、「先生」と言うべき存在だったという。

 日本の科学界では師弟3代が研究を継承した梶田氏のように、目の前の結果にこだわらず研究に専念し、次の世代、あるいはその次の世代で結実させる事例が少なくない。日本を物理学大国にしたのは、「日本の現代物理学の父」と呼ばれる仁科芳雄(1890-1951年)だ。 1917年に設立された日本を代表する研究機関の一つ「理化学研究所(理研)」に勤務し、1930年代には京都大学で量子力学を教えた。それまで日本でなじみのない学問だった量子力学の講義に魅了され、これを継承・発展させた人物こそ、後にノーベル賞を取った2人の弟子、湯川秀樹(1907-81年)と朝永振一郎(1906-79年)だった。朝永の研究は弟子の小柴氏に、そして戸塚氏に引き継がれた。

 戸塚氏は「小柴の一番弟子」の言葉通り恩師の研究を引き継ぎ、これをさらに進化・発展させた。小柴氏がノーベル賞を贈られる理由となった大きな成果は、陽子崩壊現象観測装置「カミオカンデ」を作ったことだったが、戸塚氏は後輩の梶田氏と共にカミオカンデを改善した「スーパーカミオカンデ」を完成させた。スーパーカミオカンデは2001年末の破損事故で研究中断のピンチに陥ったが、これを解決したのも戸塚氏だった。戸塚氏は当時、がんと診断された直後だったのにもかかわらず、先頭に立って問題解決に全力を注いだ。周囲の人々は同氏を止めようとしたが、「これまでやってきた研究を無駄にはできない」と修復にこだわった。そのおかげで予想よりも早く実験が再開され、それから13年たった今年、後輩の梶田氏にノーベル賞が贈られた。カミオカンデ研究構想から40年余りを経てのことだ。

 師が最初に土壌を整え、弟子が花を咲かせるケースもある。名古屋大学教授だった坂田昌一(1911-70年)は湯川の「中間子理論」を修正し、問題点解決へとつなげた優れた物理学者だったが、自身はノーベル賞を取れなかった。しかし、その研究を引き継いだ弟子2人がノーベル賞を受賞したことで実を結んだ。異端児扱いされている昨年のノーベル物理学賞受賞者で、米カリフォルニア大学サンタバーバラ校の中村修二教授も、「研究の持続性」を守る日本科学界の風土と無縁ではない。中村氏は先輩研究者たちが40年間にわたり重ねてきた青色発光ダイオード(LED)研究をもとに、これを商用化させたに過ぎない。

 直接の師弟関係はなくても、先達の精神を受け継いだ例もある。今年のノーベル医学生理学賞を受賞した北里大学の大村智特別栄誉教授は、日本の微生物学者・北里柴三郎(1853-1931年)の名を冠した北里大学に在職している。北里は1901年、第1回ノーベル医学生理学賞の公式候補に選ばれ、日本の研究者たちの鑑(かがみ)となった人物だが、結局受賞はかなわなかった。大村氏は受賞の感想で「(北里のように)私も微生物が(世の中の)何かに役立つのではないかと考えた」と述べ、その精神をたたえた。

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