朴槿恵(パク・クンヘ)大統領、安倍晋三首相、李克強首相が韓中日3カ国首脳会談に出席するため、週末にソウルにやって来る。

 共に1950年代生まれの3首脳は、若いころから政治とかかわりを持ってきたという共通点がある。ただし、朴大統領と安倍首相は政治指導者の子孫として幼いころから家庭環境そのものが政治と近かったが、李首相は早くに政界入りし、「小川から竜が出た(鳶が鷹を生んだ)」と言われている点で違いがある。

■「頑固な貴公子」安倍首相

 安倍首相は名実共に「政界の名門」出身だ。母方の祖父は岸信介元首相、大叔父は佐藤栄作元首相で、父親は安倍晋太郎元外相だ。

 安倍首相は小学生の時から政治家を夢見ており、文集にも「私の夢は実業家兼政治家」と書いた。裕福な家庭の子女が多く通う成蹊大学を卒業。鉄鋼会社に入社したが、1982年に外務大臣になった父親の秘書となり、政治を学んだ。有力な次期首相候補だった父親が膵臓(すいぞう)がんで1991年に死去すると、父親の地盤を引き継ぎ、39歳だった93年に衆議院議員総選挙で山口1区から出馬、初当選した。以降、自民党事務総長、幹事長を経て、2006年に自民党総裁となり、第90代首相に就任した。一度退任したが、12年に再び首相になった。

 安倍首相の政治的傾向は「タカ派」だった祖父の岸氏から受け継いだものだ。自身も「父よりも祖父のDNAを受け継いだ」と話しており、3大談話(宮沢談話・河野談話・村山談話)の見直しや集団的自衛権行使のための憲法改正を主張している。今は安保法制改正など、岸氏の宿願だった平和憲法改正のため段階を踏んでいるところだ。

■立身出世した李首相

 李首相は地方政府の中間幹部の家に生まれた。親の七光りはなかったが、小さいころから「秀才」と言われていた。李首相が大学を受験した1977年は、文化大革命が終わって大学入試が10年ぶりに復活した年だった。全国の受験生670万人のうち27万3000人が大学に入った。李首相はその中でもトップクラスの北京大学法学部に合格した。

 1982年(27歳)大学を卒業したが、海外留学を断念、北京大学共青団(共産主義青年団)委員会書記になれという共産党の提案を受け入れた。李氏の政治人生が始まった瞬間だ。それから16年間にわたり共青団で勤め、政治のキャリアを積んでいった。同氏は当時、「会議の時間は1時間を超えてはならない。1時間を超えたら会議場を出てもいい」という言葉を残した。中国社会にまん延していた抽象的な論戦よりも実用的な業務処理を重視したのだ。李氏はその後、共青団代表だった胡錦濤氏が国家主席になったことで表舞台に出るようになった。河南省省長、河南省党委書記、遼寧省党委書記を経て、2007年に政界の中核を担う党政治局常務委員になった。次期後継者をめぐり習近平氏(当時副主席)と競い、13年に序列第2位の首相になった。

■朴大統領と安倍首相は似た者同士? 親しいのは李首相

 朴大統領は「大統領の娘」という点で平凡な家庭出身の李首相よりも安倍首相と共通点が多い。国内で右派と左派の評価が極端に違う親族を持つことも、朴大統領と安倍首相の共通点だ。

 安倍首相の祖父・岸氏は戦後A級戦犯被疑者とされたが、後に放免となり、首相にまで上り詰めて「昭和の妖怪」と呼ばれた。安倍首相は子どものころ、「おまえのじいさんは保守反動、戦犯じゃないか」と言われて育った。しかし、岸元首相は日本の保守右翼主義者の間では「真の愛国者」と呼ばれている。朴大統領の父親・朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領に対する保守派と進歩派の評価が極端に違うのと同じだ。安倍首相と朴大統領の明確な保守性向については「岸元首相や朴元大統領が一部の人々から浴びている非難に対する感情的な反発が根底にある」という見方もある。

 自身の政治的目標を成し遂げるために、信念をなかなか曲げない点も似ている。朴大統領は最初の大統領選挙挑戦で落選したが、すぐに復活して大統領になった。安倍首相も、最初の首相就任時は1年で退いたが、自身の強硬右派路線を見直すどころか、最後まで貫き通し、2回目の首相就任で長期執権態勢に入った。こうした気の強さから、この両首脳による会談は接点が簡単に見つからないだろうという見方も多い。

 一方、朴大統領と李首相は、これまでよく気が合ったところを見せてきた。今回が5回目の対面となる。昨年10月のアジア欧州会議(ASEM)で李首相と会談した際、朴大統領は「会うのは3回目だから友人のように思える」と言った。外交消息筋は「朴大統領が自分と似ている安倍首相と疎遠にし、似ていない李首相のことを友人のように思っているのは皮肉なこと」と言った。

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