釜山市釜山鎮区草邑洞の子ども大公園の裏にある白楊山に登ると、高さ27メートルの巨大な石壁にぶつかる。1909年に釜山に水道水を供給するために建てられた水源地ダムだ。現在では洛東江を水源とするため、水源地は人工湖となった。それでも韓国最古のコンクリート重力式ダムで、土木史上の価値がある近代文化遺産だ。ダムの下には「飲水思源」という大きな文字が刻まれている。水を飲むときに水源地を建設した人々の苦労を考えようと誰かが記したものだ。

 6世紀ごろ、中国・梁の国にユ信(ユはまだれに臾)という文人がいた。彼が西魏に使臣として赴いている間に西魏が梁を滅ぼした。西魏の王はユ信の人品を高く評価し、官位を与えてそばに置いた。しかし、30年の歳月が流れても、ユ信は消えた祖国への思いでいっぱいだった。ユ信が書いた「徴調曲」に由来する言葉が「飲水思源」だ。今の自分が存在するのは自分が優れていたからではなく、自分を生んだ根本があるおかげだという意味だ。ユ信にとってその根本とは梁だった。

 習近平国家主席は杭州での朴槿恵(パク・クンヘ)大統領との首脳会談で「飲水思源」という言葉を用いた。韓中首脳会談における最大の懸案は韓半島(朝鮮半島)への終末高高度防衛ミサイル(THAAD)配備だった。ところが、習主席は1930年代に杭州にあった大韓民国臨時政府の話を取り上げ、「当時中国国民が(独立運動家の)金九(キム・グ)先生を保護した」と語った。その上で、金九先生の息子、金信(キム・シン)将軍が1996年に中国を訪れた時に書いたという「飲水思源、韓中友誼」という文字にも言及した。

 杭州時代の大韓民国臨時政府が極めて苦しい状況にあったのは事実だ。1932年に尹奉吉(ユン・ボンギル)義士が上海・虹口公園で義挙(天長節爆弾事件)を起こし、金九先生には懸賞金がかかっていた。当時、金九先生をかくまい、杭州西湖周辺に臨時政府の拠点を提供したのは中国人だった。だからといって、習主席がTHAADを協議する場で「飲水思源」に言及したことは、過去に借りがあるのだから、そろそろ返せと言っているように聞こえるもので、いらだちを感じる。

 東洋的な美徳では「飲水思源」は水を飲む人が言うべき言葉であり、井戸を掘った人の言葉ではない。それに当時韓国人の抗日独立運動は中国のためにも必要なことだった。尹奉吉義士の義挙後、蒋介石は「恥ずかしい。中国人4億人ができないことを韓国人1人でやって退けた」と称賛した。習主席は「今の韓国が誰のせいで存在しているのか考えろ」とでも言いたいのか。そうであるならば、中国は傲慢で狭量だと言わざるを得ない。

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