歴史小説や歴史ドラマの歴史歪曲(わいきょく)問題は、昨日今日始まったことではない。歴史ドラマが放送されると、ドラマの主人公を取り上げた歴史小説も争うように出版される。脚本の基になった小説は再版され、放送に合わせて急いで書かれた本も出てくる。最近だと『花郎』がそうだ。かつての『淵蓋蘇文』や『善徳女王』、『大祚栄』もそうだった。

 歴史小説にせよ歴史ドラマにせよ、歴史の大衆化に寄与するというのはよいことだ。韓国の歴史を広く伝えて自負を持たせるという面で、前向きな現象ともいえる。しかし、歴史的実体を作家が恣意(しい)的に解釈してゆがめてはならない。歴史小説は歴史の本ではないのだから想像力が割り込む余地はあるが、想像力を発揮し過ぎて、あったことをなかったかのように、なかったことをあったかのように、実体をゆがめてよいだろうか。

 高句麗の大武神王を主人公にした歴史小説を読んで、あきれてしまった。夫余の将帥が身分を明かせと言うと「われ、大武神王!」と言い返す場面があった。大武神王とは死後にささげられた尊号であって、生前用いられた称号ではない。また、ある歴史小説では「来週見よう」というせりふが出てくる。1週間という単位が登場するのは、キリスト教が入ってきた後の話だ。李舜臣(イ・スンシン)将軍を主人公にしたある小説では、李舜臣が三道水軍統制使を罷免されてソウルに連行される際、逮捕に来た人々を「禁府都事」と表現していた。実際は禁府都事ではなく、宣伝官と呼ばれる武官だった。この程度なら、枝葉末節なミスといえるだろうが、基本史料たる『宣祖実録』を読んでいれば犯さない誤りだ。

 このように小説が考証をしないので、歴史ドラマの歴史歪曲となるともはや言うまでもない。『不滅の李舜臣』では、亀甲船が進水式当日にひとりでに沈んだと描写され、あっけにとられてしまった。数年前に放送された『女人天下』では、文定王后の弟のはずの尹元衡(ユン・ウォンヒョン)を「兄」にしてしまっていた。よその家系にまで手を加えておいて、制作責任者が「ドラマを面白くするため」と言っているのを見て、あきれてしまった。

 例を挙げるとごまんとある。高句麗の将軍・淵蓋蘇文が新羅の将軍キム・ユシンの家で下働きをしていたとか、その時期なら既に老いて死んでいるはずの新羅の女性貴族・美室宮主が依然として美しい姿で登場するとか、実際にはまだ生まれてもいない大祚栄(初代の渤海国王)が淵蓋蘇文の家で召し使いをしていたとかいう設定はただのでっち上げだ。

 こうしたでっち上げの極致は『風の絵師』だ。正真正銘男性の申潤福(シン・ユンボク)を男装の女性にしてしまった。『花郎』でも、若いころの真興王(三麦宗)が同じ年頃の若者と交流し、首都・徐羅伐の内外を走り回っているが、実際には真興王は7歳で即位し、18歳になるまで母親の只召太后が摂政をしていた。また、伽耶史を扱った歴史小説に「韓国では18世紀まで、いかなる車も使ったことがない」という記述が登場したが、全くでたらめだ。あまたの高句麗古墳の壁画に登場する多くの車を、この作家は本当に一度も見たことがないのだろうか。

 こうした基本的な常識にも合わない歴史小説を書かれては困る。本を売り、金を稼ぎ、視聴率を上げたいという商業的な計算を優先して歴史を軽く考える態度は捨てるべきだ。歴史を勝手に歪曲し、でっち上げるのは、無責任を通り越して、正しい歴史教育に逆行する犯罪にほかならない。でたらめな歴史小説や歴史ドラマを作る行為は、読者の籠絡だ。だから、きちんと勉強して書けと強調しているのだ。

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