中国の習近平国家主席が、今月6日から7日にかけて米国のトランプ大統領と首脳会談を行った際「韓国は実際中国の一部だった」と発言していたと伝えられたことで、中国の韓国観に関心が集まっている。習主席が語ったといわれる発言の内容は、個人的な見解ではなく、韓中関係史に対する中国学界および中国国民の一般的な認識を反映している。

 中国の歴史学界は、韓国が韓民族形成の二つの柱としている北方のワイ貊(ワイパク。ワイはさんずいに歳)族と南方の韓族のうち、韓族だけが韓国史の領域だと見なしている。高句麗・扶余・渤海などワイ貊族やその子孫が建てた国々は、中国の地方政権だという。こうした認識によると、満州はもちろん大同江以北も、高麗時代以前は中国の領土ということになる。中国からやって来た箕子が平壌に古朝鮮を建国して周の諸侯国となって以降、漢は楽浪郡・帯方郡、唐は安東都護府を置いてこの地域を統治したというのだ。韓半島(朝鮮半島)南部から起こった韓族が北進して鴨緑江・豆満江に到達するときまで、韓半島北部は中国の領土だっという主張だ。

 三国時代以降19世紀末まで、韓中関係は東アジアの朝貢・冊封秩序の中で進展してきた。中国周辺の国々が中国の皇帝から冊封を受けて貢ぎ物をささげれば、中国側が答礼の品を贈るという互恵関係は、中国および周辺諸国の王朝交代に関係なく続いた。中国は、朝貢冊封秩序とは宗主国と服属国の支配・隷属関係だったと主張する。しかし実際には儀礼的・経済的な性格が強く、周辺諸国は内治と外交の自律性を保証されていた-というのが、世界の学界における通説だ。

 中国王朝の浮沈に伴って具体的な実情も変化していた韓中関係は、19世紀後半に東アジアが西洋列強の侵略を受ける中で変質した。1876年の江華島条約以降、日本や西欧列強が朝鮮にアプローチしてきたことを受け、中国は朝鮮に対する形式的な宗主権を実質的な支配権に転換しようとした。1882年の壬午(じんご)軍乱と1884年の甲申政変の後、朝鮮の「監国」として赴任した袁世凱は、10年間にわたって朝鮮の内政と外交を思いのままもてあそんだ。中国の政治家や知識人は、朝鮮を中華帝国の一部にしようとする構想まで打ち出した。辛亥(しんがい)革命に参加していた章炳麟は、文化的に異質な新疆・チベット・モンゴル・満州を独立させる代わりに、外交・文明を共有した朝鮮・ベトナム・琉球を編入して「大中国」をつくろうと主張した。

 1894年の日清戦争の結果として、朝鮮は中国の手中から脱した。1895年4月に締結された下関条約は「清は朝鮮が完全な自主独立国であることを認める」とうたった。韓中間の伝統的な朝貢・冊封体制は廃止され、両国は1899年9月に韓清通商条約を締結して対等な近代的外交関係を結んだ。

 しかし、朝鮮が中国の長年の属邦だという認識はその後も続いた。1910年に朝鮮が日本に国権を奪われた後、中国国民党は韓国の独立運動を支援する理由として「韓国は中国の藩属であって、その血統が互いに通ずる殷周の末裔(まつえい)にしてわが中華民族の一支流」と主張した。1911年の辛亥革命で中華民国が成立した後に編さんされた『清史稿』は、朝鮮をベトナム・琉球と共に「属国列伝」の中に含めた。中国が2003年から推進している『新清史』も、こうした前例を踏襲するのではないかという懸念が持ち上がっている。

 国際関係史研究の大家、金容九(キム・ヨング)翰林大学翰林科学院長は「1880年前後に、韓半島を満州に編入すべきだという主張が中国で非常に強まり、それ以降『韓半島は自分たちのもの』という認識が中国人の脳裏に深く刻み込まれた。習近平主席が語ったという内容は、袁世凱的な発想が現在も伝えられ、変わっていないということを示している」と語った。

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