1874年3月6日、朝鮮から清にやって来た「燕行使」の訳官が、北京にある英国公使館のマイヤーズ参事官を秘密裏に訪ねた。「外部の事情を知っていて外国の文物に偏見を持たない、ごく少数の朝鮮人の一人」と自己紹介したその人物は、少数の家門が高位の官職を独占している朝鮮の身分制に強い不満を漏らした後「朝鮮社会の変化は、ひとえに力によってのみ可能」と語った。3月27日に再びやって来た訳官は、欧州列強が軍隊を動員し、世界に背を向ける朝鮮政府の体制を放棄させることを望む、と語った。それから2年後の1876年1月、朝鮮と修好条約を結ぼうと日本の軍艦が江華島を侵犯した際に通訳を務めたこの訳官は、日本に朝鮮内部の事情を伝え、江華島に上陸して武力を誇示するようそそのかした。

 朝鮮の変化は外部からのショックによってのみ可能と信じ、外部との「内通」もためらわなかったこの人物は呉慶錫(オ・ギョンソク)。中国との間を10回以上も往復する中で世界情勢を知り、新思想を抱くようになった彼は、親友だった漢医の劉大致(ユ・デチ)と考えを共有し、金玉均(キム・オクキュン)・朴泳孝(パク・ヨンホ)など両班(ヤンバン=朝鮮王朝の貴族階級)の子弟や僧侶の李東仁(イ・ドンイン)などを抱き込んで1871年ごろ秘密結社「開化党」を結成した。

 『開化党の起源と秘密外交』(一潮閣)を出版したキム・ジョンハク東北アジア歴史財団研究委員(40)は、呉慶錫・金玉均・李東仁などが接触していた日・英・清・米・仏の外交官らが本国に送った報告書を読み解き、開化党の形成プロセスとその動きを追跡した。

 外国の外交文書に記された開化党の姿は、従来考えられていたものとは大きく異なる。開化党は、外部勢力を引き入れて政権を掌握し、身分制改革など朝鮮社会を根本的に変化させようとした。「門戸開放」「独立」「開化」などは、開化党が外国の援助を期待してそのときそのときの状況に合わせて提示したスローガンだった。開化党はまず英国にアプローチし、英国が冷淡な反応を示すと日本へと方向を転じた。日本へひそかに派遣された李東仁は、英国と日本の間を行き来しつつ難しい外交工作を繰り広げたが、朝鮮王朝の政権勢力に殺害された。

 本書は、著者のソウル大学外交学科の博士論文を整理したもので、これまで主に開化党関係者の記録や回顧に依存していた開化党研究の地平を拡大した。だが、外国の史料にも同じように主観と歪曲(わいきょく)が入り込んでいるのではないか? これに対し、キム研究委員は「外交文書は事実を記録するしかなく、複数の国の外交文書が開化党について同じ話をしていれば信用できる」と語った。

 著者は、朴趾源(パク・チウォン)の北学思想が孫の朴珪寿(パク・キュス)を経て開化党に伝承された-という通説を受け入れない。「開化党の鼻祖」たる呉慶錫は、両班の庶子で身分制を批判していた朴斉家(パク・チェガ)の学問を受け継ぎ、外部勢力の後押しを受けようとした点で、朴珪寿の立場とは大きな差を示しているという。従来の研究では、穏健開化派(金弘集〈キム・ホンジプ〉・金允植〈キム・ユンシク〉・魚允中〈オ・ユンジュン〉)と急進開化派(金玉均・朴泳孝・洪英植〈ホン・ヨンシク〉)は、朴珪寿の門下でそろって形成されたといわれていた。しかし著者は、急進開化派は呉慶錫の影響を受けたのであって朴珪寿とは関係ない、と言う。穏健開化派は従来の権力構造や親清路線を維持しようとし、急進開化派は権力構造の変革と親日路線を追求したという点で、大きな隔たりがあるというのだ。キム研究委員は「開化思想が実学を継承したという見解は、『内在的近代化』を明らかにしなければならないという強迫観念から出てきた虚構」と主張した。

 開化党に対する著者の視線は、批判と同情が交錯している。外部勢力との結託を辛辣(しんらつ)に批判しつつも、国家の改革と生存に向けた壮絶な情熱には理解を示す。キム研究委員は「なるべく感情を込めないようにしたけれども、あのようになった。がたがたになった国で、内部の改革のために外部の手を借りようとせざるを得なかった開化党の立場は切なかった」と語った。

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