▲ノ・ジョンテ哲学エッセイスト

 1832年6月、パリ。君主制廃止を叫んで共和主義者らが蜂起した。バリケードを築き、籠城に入った。身分を隠して潜入していたジャベール警部はすぐに見つかり、捕虜として捕らえられ、柱に縛り付けられる身となってしまう。そんな彼の前に、けん銃とナイフを持ったジャン・バルジャンが現れた。ジャベールは、自分が追っていた前科者によって命を落とすことになるだろうと考え、毅然と死に備える。

 犯罪者は悪で、卑しい存在であり、自由人ではないことから一抹の尊重を受ける価値もないというのがジャベールの平素からの考えだった。しかしジャン・バルジャンはジャベールの縄を解いてやり、後で探しに来て自分を逮捕しろと住所を教えた。ジャベールは、自分でも気づかないうちに敬語で哀願する。「むしろ、私を殺してください」。しかしジャン・バルジャンは虚空に銃を撃ち、ジャベールを処刑したかのように偽装した後、けがをしたマリウスをかついで下水口を通って脱出する。『レ・ミゼラブル』の一場面だ。

 ビクトル・ユゴーにとって、ジャン・バルジャンは完全な道徳と神の倫理を象徴する人物だった。逆にジャベールは、人間が作った不完全かつ残忍で、盲目的な法の化身だ。しかしわれわれは、著者の意図とは少し違う角度からジャン・バルジャンとジャベールの選択について考えてみるとしよう。さまざまな哲学者、とりわけアイザイア・バーリンとエーリッヒ・フロムが重要視した「消極的自由」と「積極的自由」の対立を垣間見ることができるからだ。

 消極的自由とは、何かから脱する自由を意味する。英語では「freedom from」の形式で表現できる。監獄に閉じ込められない自由のように、外部から否定的干渉を受けずにいられる自由が、まさにこの消極的自由だ。ジャベールを殺せば容易に得られた自由でもある。一方、積極的自由は「freedom to」で表現される。自分が望む何かをできる自由を意味する。マリウスを救い、養女の婚約者を守り抜くことでジャン・バルジャンが勝ち取った自由ということになる。

 サー・アイザイア・バーリンは消極的自由が自由の本領だとみなした。著書『自由論』中の「二つの自由概念」(Two Concepts of Liberty)にてバーリンは「自由の根本的な意味は、他人によるくびきから、監禁から、奴隷状態からの自由」だと強調している。反面、積極的自由は「理性による自己支配」という概念を下敷きとしており、「理性的なわれわれがお前を支配するのが真の自由」という全体主義擁護論として悪用可能であって、警戒しなければならない。

 エーリッヒ・フロムは、代表作『自由からの逃走』で逆の議論を展開した。なぜドイツ国民はナチスを「自発的」に支持したのだろうか。近代化と資本主義は、既存の封建的秩序から人々を解放した。消極的自由を強制される逆説と向き合うことになったのだ。ドイツ人は、その状況に耐えられなかった。「自由からの逃走」を敢行し、ナチスを支持して自ら自由を返納するに至った。こうした弊害を克服しようと思ったら、「人間の同一性を犠牲にせず、孤立感の恐怖を克服する」自発的な活動、すなわち積極的自由が必要だとフロムは主張した。

 二つのうち片方だけが正答だとはいえない。他者の奴隷へと転落せずにいられる消極的自由は、他の人と手を携えて自分の人生を開拓していける積極的自由と「コインの両面」をなすものだからだ。消極的自由がなければ積極的自由も成立不可能だろうが、積極的自由が空疎さを埋めてくれなければ、ちょうど1930年代のドイツのように消極的自由もまた、たちどころに崩れてしまう。

 ところが日本に対してだけは、いまだに消極的自由のみを唯一のラインと考える声が大勢を占めている。昨年の光復節の祝辞で、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は「誰も揺るがし得ない国」になるべきだと語った。日本と和解して親しくなることが韓国人の自由に対する脅威、という前提を置かなければ出てこない発言だ。その消極的かつ防御的な態度は、今年も続いている。

 現実は全く違う。幾つか事例のみ挙げてみよう。ネイバーの子会社である韓国系企業「LINE株式会社」のメッセンジャーアプリは、日本でカカオトークと同じ立場にある国民的なメッセンジャーだ。かつては韓国の大衆歌謡の相当数が日本の歌を剽窃(ひょうせつ)したり翻案したりしていたけれども、今ではTWICEに続きJYPエンターテインメントにて企画したNiziUが、日本の国民的アイドルの位置をうかがっている。まだ先は長いものの、あらゆる経済指標もまた韓日間の格差が徐々に縮まる状態となっている。

 こんにち韓国が日本と肩を並べていられるようになったのは、消極的自由を守るため門を閉ざして鍵をかけていたからではない。1965年に朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が産業と経済の門戸を開放し、98年から金大中(キム・デジュン)大統領が大衆文化の窓を開いたことで、こんにちの大韓民国が可能になったのだ。その結果、植民支配を行った国と植民支配を受けた国が対等の位置に立った。米国と英国あたりを除けば、人類史上に類例を見出し難いケースだ。日本「から」の自由にとどまらず、日本「に対する」自由を韓国国民が享受するようになったおかげだ。積極的自由の奇跡なのだ。

 消極的自由の価値を過小評価はできない。だが、消極的自由にのみ執着していたら真の自由は得られない。ジャベールは、その罠から逃れられなかった。誰が法を破ったか、すなわち監獄に行くべき人間か、そうでないかのみが彼の関心事だった。快く他人のため犠牲になり、許しを与える積極的自由を、ジャベールは想像してみたこともなかった。だから、自分が犯罪者のジャン・バルジャンに許され、感化され、ついにはジャン・バルジャンを解放までしてやったという事実を受け入れられなかった。「ジャヴェルを驚かした一事は、ジャン・ヴァルジャンが彼を赦したことであり、彼を茫然自失せしめた一事は、彼自らがジャン・ヴァルジャンを赦したことであった」(『レ・ミゼラブル』岩波文庫版、豊島与志雄訳、1987)。最終的にジャベールは、自由から逃走するため、自ら命を絶ってしまった。

 韓国は日本の植民地だった。解放されて75年目、韓国は先進国に向けてどんどん進みつつある。植民支配を行った国と肩を並べる被植民支配国として、人類史の新たな場を開いていく誇らしい大韓民国だ。なのに、ある人々は日本に対する消極的自由のみを叫ぶ。まだ韓国を日本の植民地だと思っているかのようだ。まるで、ジャン・バルジャンを最後まで前科者としか銘記していなかったジャベールのような話だ。当の国民は消極的自由を越え、積極的自由の世界に進んで久しい。来年の光復節は、より未来志向的な日になることを希望する。

ノ・ジョンテ(哲学エッセイスト)

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