▲徐程錫・公州大学教授が12月7日、奈良県にある日本最古の仏教寺院「飛鳥寺」で、「第43回 日本の中の韓民族史探訪」に参加した大学生らに説明しているところ。/写真=チョン・ノクヨン記者

 12月6日、熊本県の船山古墳。ここで出土した遺物を見た大学生のカン・ゴンウさん(ソウル大学1年生)は「日本の文化財だけれども韓国のものとすごく似ていて、異国的な印象を持たなかった」とし「百済の文化が日本にたくさん波及したと学んだけれど、直接見てみると、歴史にもう一歩近づいたように思う」と語った。

 5世紀後半の日本の支配層の墓と推定されている船山古墳からは、92点の遺物が出土した。このうち相当数は百済の遺物と似ていた。青銅鏡は百済の武寧王陵のものに近い。金銅製冠帽や金銅製沓(くつ)は、忠清南道公州水村里古墳や全羅北道益山笠店里古墳から出土した遺物とサイズが違うだけで、見た目はほとんど同一だ。大田大学歴史文化学科のイ・ハンサン教授は「金銅製冠帽や金銅製沓が百済から伝来したことは明らか」としつつ「だからといって、百済が優越地位からこの地域を支配したと見るのは困難。互いに交流関係を結んだ根拠と見るべき」と語った。

 日本にある主な遺跡を見て回って韓日関係の歴史を探る「第43回 日本の中の韓民族史探訪」が、12月5日から9日にかけて開催された。朝鮮日報紙が主催し、新韓銀行・GS・ポスコが後援するこの行事は、1987年から毎年1-2回のペースで開催されてきた。これまで教師・大学生など合わせておよそ1万8000人が参加した。新型コロナ問題などで2018年以来4年ぶりに開かれた今回の探訪には、大学生や一般人など150人が参加した。江原大学史学科のソン・スンチョル名誉教授、公州大学文化財保存学科の徐程錫(ソ・ジョンソク)教授、大田大学のイ・ハンサン教授が現場解説を担当した。

 参加者らは、日本国内の遺跡地の各所で韓民族の息吹と対面した。佐賀県有田では朝鮮出身の陶工、李参平(イ・サムピョン)=?~1655=と対面した。忠清南道公州出身の李参平は、壬辰(じんしん)倭乱=文禄・慶長の役=当時、肥前国の領主によって日本へ連れてこられた。彼は日本で初めて「白磁」を作り、日本の代表的な陶磁器「有田焼」の陶祖となった。李参平が亡くなった3年後、村の人々は「陶山神社」を作り、今でも彼を神として祭っている。1917年には「陶祖李参平碑」も作った。今でも直系の子孫が陶磁器作りをしながら「14代李参平」を名乗っている。隣国の学生たちと対面した14代李参平が、はっきりした韓国語で「アンニョンハセヨ」とあいさつすると、学生たちは拍手で応えた。学生のプ・ジウォンさん(公州大学3年生)は「陶工が日本に大勢連れていかれたのは知っていたけど、有田の陶磁器の始祖が朝鮮の陶工だったことは初めて知った」と感嘆した。

 奈良県明日香の高松塚古墳の壁画では、高句麗壁画の痕跡を目で確認した。学生のハン・チャンフンさん(建国大学1年生)は「高松塚の壁画は本で見たことしかなく、直接見ると新たに実感が湧いてくる」とし「文化交流の現場に接し、韓日間の望ましいコミュニケーションについて考えてみるようになった」と語った。日本初の仏教寺院・飛鳥寺は百済の王興寺が原型という事実を知り、京都の広隆寺では、新羅の金銅弥勒菩薩(みろくぼさつ)半跏思惟(はんかしゆい)像(韓国国宝83号)とうり二つの木造弥勒菩薩半跏思惟像と対面した。徐程錫教授は「飛鳥寺を建てる際、百済が日本に技術者を送った」とし「日本初の仏教文化である飛鳥文化を花咲かせる上で決定的役割を果たしたのが百済」と語った。

 日本に存在するのは、交流の痕跡だけではない。侵略と対立のつらい歴史もある。冷たい海風が吹く下関の海岸には、日清戦争に勝利した後、日本が朝鮮に対する支配権を確固たるものした「下関条約」(1895年)を締結した場所が再現されている。壬辰倭乱を起こした豊臣秀吉が朝鮮侵略の前進基地にした肥前名護屋城跡では、静かなため息が漏れた。韓日間の長い交流を断絶させた不幸な歴史がここから始まったのだ。学生のカン・ハヨンさん(漢陽大学1年生)は「日本が緻密に戦争の準備をしている間、朝鮮は備えることができずにいたと考えると残念」とし「歴史は一つの方向に流れるわけではなく、交流と対立が繰り返されるということをあらためて学んだ」と語った。

 ソン・スンチョル江原大学名誉教授は「韓日両国は敵対的関係ではなく共存と共生へ進んでいく関係」とし「あちこちに残る遺跡や遺物が、こうした歴史を証言している」と語った。

大阪・奈良・熊本=チョン・ノクヨン記者

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