▲172年前、全羅道の羅州牧使が駐上海フランス領事に贈った焼き物の酒瓶。/写真=ニュース1

 フランス・パリの国立陶磁器博物館で今年5月、韓仏友好行事が開かれた。駐仏韓国大使館の主催でシャンパンとマッコリを一緒に飲むという集まりだった。韓仏が軍事衝突した丙寅洋擾(へいいんじょうよう、1866年)に15年先立つ1851年、両国の間で友好的な最初の対面があり、そのときフランスのシャンパンと朝鮮の伝統酒を酌み交わしたことを記念したという。

 この日の行事が陶磁器博物館で開かれたのには訳がある。当時、朝鮮から持ってきた褐色の酒瓶がここに所蔵されている。事の次第はこうだ。フランスの捕鯨船ナーバル(Narval)号が難破して船員20人が現在の全羅南道新安の飛禽島に漂着した。知らせを聞き、中国・上海駐在のフランス領事、シャルル・ド・モンティニーが一行を助けようと島に到着した。船員らは、朝鮮側から思いがけない厚遇を受けて無事に過ごしていたという。モンティニーは、島を管轄する羅州牧使の金在敬(キム・ジェギョン)と会い、感謝の意としてフランス産のシャンパンおよそ10本を出して夕食会を持った。羅州牧使も「澄んでいて強い酒」を出し、褐色の酒瓶はそのとき酒を入れていたものだという。

 事件の内幕をもう少しのぞいてみると、当時の西欧の帝国と、やがて植民地へ転落する隠遁(いんとん)の国との差が克明に表れる。羅州牧使・金在敬は、モンティニーに褐色の酒瓶を渡す一方で、シャンパンの瓶を受け取らなかったのだろうか。しかし、韓国には何の文献も残っていない。二人が会ったという記録すらない。1851年陰暦4月1日、『備辺司謄録』に「飛禽島に漂流してきた異国人20人を問情(事情聴取)し、一行に船一、二隻を与えて戻らせた」ことを報告した内容のみが残っている。当時、朝鮮王朝の官吏は絵を描いて一行との対話を試みたが、どこの国の人間なのかもついにつかめなかった。当時、朝鮮王朝の中央政治は安東金氏と豊壌趙氏が権力を巡ってひたすら政争に没頭していた。モンティニーと会った金在敬はどうなったのだろうか。『朝鮮王朝実録』を検索してみると、陰暦4月10日、暗行御使の趙雲卿(チョ・ウンギョン)が彼の罪を問うことを求めたという記録がある。罪の内容は出てこないが、事件からわずか9日で弾劾されたことから見て、モンティニーと酒を飲んだ件と関係があるものと思われる。

 他方モンティニーは、対面の詳細な記録を本国へ報告した。褐色の酒瓶は、その証拠物として必要だったのだろう。172年が経過した現在まで保管するほどに、大国はささいな情報もおろそかにせず執拗(しつよう)に収集する-という事実を示している。モンティニーは、金大建(キム・デゴン)神父が1845年に模写した「朝鮮全図」も入手し、本国へ報告した。彼はなぜ、それほどまで朝鮮に関心を寄せたのだろうか。

 当時の状況についての研究として、フランスの学者ピエール=エマニュエル・ルーが書いた『十字架、鯨、大砲:19世紀中盤の韓国と向き合ったフランス(La Croix, la baleine et le canon:La France face à la Corée au milieu du XIXe siècle)』がある。フランス語で書かれた本を買って読んでみることはできず、簡略な英語の書評を見つけることができた。書評によると、モンティニーは「韓国に対する介入主義の伝令」で、難破船員を粗略に扱った韓国を懲らしめるべきだと主張する強硬派外交官だった。友好協力とは相反する人物だ。といっても、彼をとがめるべきではない。当時、西欧列強のフランスはアジア地域で植民地を探し、朝鮮もその対象の一つだった。モンティニーの主張が実現しなかった訳は、よりよい植民地であるベトナム攻略の方が至急だったからだ。フランスは1858年、ナポレオン3世の命令によりベトナムのダナンを攻撃し、ついには植民地とした。

 朝鮮の酒瓶を両国友好の象徴としてはならぬと言っているのではない。時代は変わった。交流の象徴とするに十分だ。ただし、外の世界がどのように回っているかを知らず、国内での権力闘争にばかり没頭するとき、危機が迫るという事実、国を守ろうと思ったらささいな情報もおろそかにしてはならないという教訓を、172年前の褐色の酒瓶を見ても忘れるべきではない。

李漢洙(イ・ハンス)文化部長

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