「ここが保守の心臓なんですね」とミン・ギョンウ氏は語った。骨の髄まで主思(主体思想)派だった彼は、本紙が珍しいようで、しきりに辺りを見回していた。「若いころに形成された思考の原型は、容易には変わりませんよ。新たな知識、経験を通して人が変わると? 取るに足りません」。韓米自由貿易協定(FTA)反対と狂牛病(牛海綿状脳症、BSE)デモの主導者で、福島怪談の虚構を論破してきた彼だが、依然として自己検閲に苦しんでいるという。「朝鮮日報はよくない、検察は悪だというように、無意識のうちに学習されたファンタジーを打ち破るのは本当に難しいことです。まだ『全大協進軍歌』を聞くと泣きそうになりますね」。彼は8月15日にチュ・デファン、ハム・ウンギョンと共に「586世代(1980年代に大学へ通った60年代生まれの50代)片付け論」を主張して「民主化運動同志会」を立ち上げた。

■福島デマ…反尹錫悦のための「だし汁」

-2008年の狂牛病デモのとき事実検証はなかったと暴露したことが、福島怪談の拡散を防ぐことに寄与した。

 「福島の汚染水は、キャンプ・デービッド会議など韓米日軍事協力が強化される中、(革新系最大野党の)民主党と市民団体がこれを阻止するための“弱い環”として利用したものだ。しかし多くの韓国国民は、韓米日軍事協力の基調は正しいと判断し、扇動に巻き込まれなかった。ここに、狂牛病学習効果で韓国国民が民主党ではなく科学者らの言葉を信頼した結果がある」

-狂牛病デモ隊の関心は、ひたすら李明博(イ・ミョンバク)退陣だったと言ったが。

 「福島も同じだ。汚染処理水の科学的真実か否かは彼らの関心事ではない。ひたすら尹錫悦(ユン・ソンニョル)に反対して李在明(イ・ジェミョン)の司法処理を防ぐことが目的だった」

-当時、狂牛病の真実に少しも疑いを持たなかったのか?

 「何人かの専門家に狂牛病の存在を尋ねてみた。誰も関心を持っていなかった。当然、討論もなかった。酒の席で、放送局プロデューサーと教授が電話している内容を聞いただけだ。牛たちがばたばた倒れる映像を見せてやれば国民がショックを受けるはずだと。狂牛病は単なる“だし汁”に過ぎなかった」

-あのときは韓国国民はなぜ巻き込まれたのだろうか?

 「狂牛病を知っている科学者が特におらず、知っていても市民社会が荒っぽく圧迫するので発言しなかった。福島怪談は、原子力騒動の経験のある科学者らが積極的に乗り出してくれて、防ぐことができた」

■主思派最大のプロジェクト「李承晩殺し」

-FTAと狂牛病問題を経験して、学生運動界に懐疑を抱いたと言ったが。

 「FTAが締結されたら米国の植民地に転落するだろうと思った。ひたすら反米が目的の主思派は、相手が米国なら闘争するだけだった。あのころ、サムスン電子の営業利益は日本の半導体企業の営業利益を全て合わせたよりも大きいという報告書を見て衝撃を受けた。サムスンは買弁資本(外国資本に従属する資本家)ではなかった」

-21世紀に韓国が植民地という考えを持っていたというのか?

 「疑い始めたのは、1990年代にソテジとRoo’Raが出てきたときからだ(笑)。しかし認めなかった。植民地を否定した瞬間、主思派の存在理由が消えるから」

-『進歩の再構成』という本がそのころ出た。

 「自分が20年活動してきた主思派は間違っていたという、最初の宣言だった」

-主思派が間違っていたということを認めるのに、そんなに長い時間がかかったのか?

 「自分をはじめとする80年代学生運動家らは、独立運動のように革命を起こすと考えた。われわれが一番好きだった歌が独立軍歌だ。チョ・グクが『竹やり歌』うんぬんと言うのも、そのせいだ。演説もまた、どれほど荘厳かつ悲壮だったか…。『永遠の~』『人間解放』『けりをつけよう』といった感傷的かつ激烈な単語の数々。あのころは革命以外の人生は考えてみたことがなかった」

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