-文在寅の政治グループが最も危険だと言っていたが。

 「金大中(キム・デジュン)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権では、まだエリート集団が布陣していた。ところが文在寅政権は、80年代の夢想にとらわれた学生運動界の人間が掌握した。文大統領の『綾羅島演説』を聞いてびっくりした。『民族自主』『南側大統領』といった80年代学生運動界の用語がそのまま入っていた。世界はAI革命へ向かっているのに、文政権は検察独裁、歴史清算に退行した。『チャンケ主義の誕生』など、70-80年代思考の原型に閉じこもっている彼が推薦するデタラメな本を見よ」

-86世代はデモばかりして勉強はしなかった、という指摘に同感だ。

 「私は文在寅に続いて、今の李在明の周囲にいるグループが、韓国政治史上で知的能力の最も低い人々だと思う。ひたすら金大中と盧武鉉のイメージを売り出しつつ、過激な発言で存在感を誇示するだけだ。民主党はチョロム会(民主党内の李在明系の勉強会)、ケッタル(熱狂的な李在明支持者)たちと決別しなければ希望はない」

■チョ・グクより危険な人々

-だが、なぜ依然として支持者が多いのだろうか。

 「政策競争というよりも、無意識の戦いだと思う。民主化世代がつくり出した80年代ファンタジーが依然として強力に作用していると思う」

-尹錫悦大統領も86世代ではないのか?

 「尹錫悦の文化的原型は80年代中盤のソウル大学アクロポリス広場にある。大統領選候補のころ、学生運動の象徴であるハム・ウンギョンを訪ねたではないか。しかし尹錫悦がイデオロギーに偏らずバランスを保つようになったのは、父親の尹起重(ユン・ギジュン)教授の影響だったと思う。尹大統領が自由主義市場経済学者のミルトン・フリードマンを『人生の書』に挙げる理由がそこにある。そういうわけで、父母の影響は重要だ」

-以北出身で東大門において商売をなさっておられたご両親は、ミン・ギョンウの人生にどのような影響を与えたか?

 「強い生存力。息子が学生運動をして監獄に行くことを、心配しつつもクールに受け入れた。以北ではよく見た風景だと(笑)」

-ソウル大学医予科に入学したのに中退して国史学科に入り直し、ご両親は大いに失望されたと。

 「母は他界するときも『なぜ医学部をやめたのか』と恨んでいた」

-なぜ国史学科だったのか。

 「小学校のころラジオで聞いたベトナム敗亡ニュース、先生方が聞かせてくれた4・19革命(1960年、李承晩〈イ・スンマン〉大統領を退陣させた運動)についての記憶が鮮明だった。医学部が嫌いというより、歴史、哲学の勉強をしたかった」

-学生運動界と決別した後、数学の講師になった。

 「学窓時代、数学が一番得意だった。国家保安法で2回監獄に入れられていたときも、数学の問題を解いていた(笑)。教育革新企業をやりたかったが、事業の手腕がないので駄目だった。勉強する頭と事業をする頭は全く別物らしい」

-「民主化運動同志会」を結成した。

 「『解放前後史の認識』が招いた反大韓民国的歴史認識からまず片付けようという考えに共感する方々が集まり、およそ500人が賛同した。私が右派に転向したのは、チョ・グクよりも、チョ・グクを盲目的に支持する人々のせいだった。『チョ・グクには一寸の誤りもなく、検察が組み上げた事件』という言葉に衝撃を受けた。韓明淑(ハン・ミョンスク)政治資金授受、金慶洙(キム・ギョンス)ドルイドキング事件も反省していない。彼らは、もはや民主勢力ではなかった」

-チョ・グクは「いっそ私を南山に連行して拷問しろ」と言っていたが。

 「私の親しい友人は、街頭闘争に出たことも火炎びんを投げたこともないのに、自分は民主闘士だったという妄想に陥って、そのころを描写しつつ怒っている。86世代には、精神科の治療が必要な人が多い」

■ミン・ギョンウ氏とは

 1965年ソウル生まれ。ソウル大学医予科に通うが中退し、国史学科に再入学した。人文学部学生会長、汎民連(祖国統一汎〈はん〉民族連合)南側本部事務処長を務め、国家保安法違反で2度拘束された。韓米FTA反対運動本部政策チーム長として狂牛病デモを主導した。『進歩の再構成』『86世代の民主主義』などを出版し、現在は数学講師として働きつつ「未来代案行動」を率いている。

金潤徳(キム・ユンドク)先任記者

ホーム TOP