▲韓国人の友人イ・チョルスを助けるために乗り出したランコ・ヤマダ弁護士は、最近行われた本紙の取材で「韓国や日本という国籍を超えた、人間性に対する信頼が発展のための力」だと語った。/写真=イ・テギョン記者

 1973年6月3日、米国サンフランシスコのチャイナ・タウンで、ある中国人が頭を銃で撃たれて死亡した。すぐさま、韓国人移民のイ・チョルス(Chol Soo Lee、当時21歳)が容疑者として逮捕された。白人の目撃者らは「東洋人の男が銃を撃つのを見た」と言った。イ・チョルスの銃と殺人に使われた銃は違うものだという事実、目撃者らが描写した殺人犯の体格とイ・チョルスの体格は大きく違っていたという事実などは、警察によって隠蔽(いんぺい)された。あやふやな証言を基に、裁判はすらすら進み、終身刑の言い渡しを受けて悪名高い刑務所に収監されたイ・チョルスは、在監者とのけんかで実際に殺人を犯した。加重処罰で死刑を言い渡された彼について、韓人社会は恥辱と見なして沈黙した。

 埋もれていたイ・チョルス事件を、一人の記者が暴いた。韓国人として初めて米国の主流メディア「サクラメント・ユニオン」で働いたイ・ギョンウォン(Kyung Won Lee)記者だった。チャイナ・タウンでの取材中に状況を伝え聞いたイ記者は、6カ月間という時間をつぎ込んだ。1978年1月に記事が報じられると、アジア系コミュニティーが沸き立ち始めた。「白人警察と司法の不義に立ち向かうためには、少数民族が団結しなければならない」という共感が形成された。日系、中国系、フィリピン系、黒人系、ラテン系、果てはネーティブ・アメリカンまで立ち上がった。後援金集めと街頭デモに乗り出した彼らはイ・チョルス救命運動委員会(Chol Soo Lee Defense Committee)を組織し、私立探偵を雇って、事件現場に最も近い場所で状況を目撃した別の証人を探し出すことに成功した。再審の判決は無罪。彼が実際に犯した殺人については10年間の服役で振り替えるプリーバーゲニング(Plea-bargaining. 司法取引)が行われ、1983年3月にイ・チョルスは釈放された。

 この事件を追ったドキュメンタリー映画『フリー・チョルス・リー』(Free Chol Soo Lee。監督:ハ・ジュリー〈Julie Ha〉、イ・ソンミン〈Eugene Yi〉、10月18日韓国公開)は、昨年のサンダンス映画祭USドキュメンタリー・コンペティション部門に公式招待され、トロント・リール・アジアン国際映画祭でベスト長編映画賞(Osler Best Feature Film Award)を受賞した。当時「イ・チョルス救命運動のジャンヌ・ダルク」と呼ばれたランコ・ヤマダ弁護士(72)は、最近行われた本紙のインタビューで「韓国と日本、アジアが団結してこそ発展するという事実は、50年たった今も同じ」とし「国籍ではなく人間の尊厳を信じるべき」と語った。

 彼女は日系3世で、カリフォルニア大学(UC)サンタクルーズ校に通っていた1972年の夏、サンフランシスコのチャイナ・タウンで母親の店を手伝っていてイ・チョルスと知り合った。ヤマダ弁護士は「店を閉めて出たらチョルスと会い、ククス(麵料理)を食べて親しくなった」とし「チョルスは社交的で、楽天的な青年だった。街の真ん中で人を殺しかねない人間ではなかった」と語った。ヤマダ弁護士は翌年、チョルス事件のことを新聞で見て知った。驚愕(きょうがく)した彼女は、収監されたイ・チョルス宛てに「あなたは殺人者じゃないと信じている」という手紙を書くことから始めた。イ・チョルスのために戦う意欲のある弁護士がいないという事実も知った。「誰も助けてあげようとしない悪夢。それはチョルスだけの問題や韓国人だけの問題ではないと考えました。私にできることをやろう、と決心したんです。弁護士になるためUCヘイスティングス・ロー・スクールに進学して、後に弁護人団へ合流しました」。イ・チョルスは後に「ランコの友情は私の暗い世界において純粋な光だった」と述懐した。昨年他界した柳在乾(ユ・ジェゴン)元国会議員=第15代-17代=も当時、米国の弁護士として救命に参加した。

 ヤマダ弁護士は、イ・チョルス釈放運動を行う中で夫にも巡り会った。募金のためにコメディーイベントをしていた日系3世だった。「あのときは、東洋人であれば一つでした。チョルスが釈放された日の興奮は今も忘れられません」

 イ・チョルス釈放は米国のマイノリティーが連合して起こした最初の人権勝利だった。もともと韓人社会はよその民族に対して排他的だったが、この事件の後、和合して協力しなければならないという認識が高まった。ドキュメンタリーは、イ・チョルスをヒーローとしてのみ描写はしていない。彼が出所後、日常に適応できず、麻薬に溺れたことまでありのまま収めている。ヤマダ弁護士は「私の費用で、麻薬からの立ち直りプログラムにも入れてあげましたが、現実の暮らしは彼にとってあまりにも重荷だったようです」と語った。イ・チョルスはギャング団の放火に加担したものの、証人保護プログラムに入って隠遁(いんとん)生活を送り、その最中に持病が悪化して2014年に亡くなった。

 ヤマダ弁護士は「チョルスが亡くなる数年前の、あいさつの電話が最後だった」とし「韓国人であろうと日本人であろうと、同志愛を通して一緒に多くのことを成し遂げることができるということを分かってもらえるとうれしい」と語った。チョルスに言えなかった言葉も忘れなかった。「チョルス、この驚くべき、素晴らしくて美しい物語を、人々が映画にしたのよ。あなたと私がこの映画の中に一緒にいる、すごくありがたいことじゃない?」

申晶善(シン・ジョンソン)記者

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