▲イラスト=UTOIMAGE
江戸時代に生きた宮本武蔵は生涯60回以上の決闘で1回も負けたことがないという。歴史小説家・司馬遼太郎の「宮本武蔵」にはその無敗の境地に至った秘訣(ひけつ)が記されている。通常は武蔵が考案した二刀流がその理由と考えるだろうが、実はそれだけではなく、武蔵が自分よりも弱い相手としか戦わなかったことも大きな理由だった。幼稚な手口で勝率を上げたようだが、司馬はここから一つの教訓を見いだしている。戦うかどう..
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江戸時代に生きた宮本武蔵は生涯60回以上の決闘で1回も負けたことがないという。歴史小説家・司馬遼太郎の「宮本武蔵」にはその無敗の境地に至った秘訣(ひけつ)が記されている。通常は武蔵が考案した二刀流がその理由と考えるだろうが、実はそれだけではなく、武蔵が自分よりも弱い相手としか戦わなかったことも大きな理由だった。幼稚な手口で勝率を上げたようだが、司馬はここから一つの教訓を見いだしている。戦うかどうかを決める前に、自分と相手の実力を冷静に評価する必要があるということだ。「知彼知己(ちひちじ、彼を知り己を知る)」という言葉通り、無謀な戦いはしないという知恵だ。
【写真】2001年に新大久保駅で人命救助に当たり亡くなった李秀賢さんの墓参りをする石破首相
1923年生まれの司馬は22歳の時に祖国の敗戦を目の当たりにし「なぜ日本人はこれほど愚かになったのか」と自問自答した。司馬の小説はいわばこの問いの答えを見いだす作業に等しかった。司馬にとって日本の敗戦は、無謀な戦いをしなかった武蔵の知恵を忘れた残酷な結果だ。この考え方は司馬だけのものではない。戦争により日本は敗戦国というレッテルが貼られ、数百万人の国民を死に追いやったが、戦後になって日本の多くの知識人たちはその原因となった「自分たちよりも強い国との戦争」という大きな過ちを反省した。
日本の石破茂首相が先週発表した「戦後80年所感」もこの反省の延長線上にある。石破首相は戦争を回避できなかった理由として、軍の統帥権を文民統制下に置けなかった憲法上の盲点、そして政府と議会の無能さを指摘した。「冷静かつ合理的な判断よりも、精神的、情緒的判断を重視し、国が進むべき道を誤った歴史を繰り返してはならない」との考えを述べた。
石破首相のメッセージには一国の政治家としての思いが込められているが、その一方で限界も露呈した。石破首相は植民地支配を謝罪した1995年の村山談話を継承すると口では言ったが、自らの言葉では反省しなかった。それも首相談話ではなく個人の所感という形だ。日本の右翼勢力を意識したのだろう。石破首相の反省が向けられているのは1931年の満州事変から始まり、太平洋戦争にまで暴走し敗亡に至った1945年までに限定されている。
歴史に対する日本の反省に関心が向いていたところ、政治学者の片山杜秀が書いた「未完のファシズム」の一部から「日本が語る反省とはこういうものか」と感じたことがある。片山は日本を「持たざる国」とし、その日本が「持つ国」である米国との戦いに国民を追いやったと批判した。さらに「体の大きさを理解しよう」として「背伸びが成功する喜びよりも、転んだときの痛さや悲しさなどを想像することの重要性」を訴えた。「痛さ」「悲しさ」という言葉から、のどに魚の骨がひっかかったような違和感を抱いた。つまりこれらの言葉は日本人だけに向けられていたのだ。これが日本のいう反省なら、日本が背伸びして持つ国になった時、何が起こるか恐ろしくなった。
東京大学の加藤陽子教授は終戦から70年を迎えた時の著書「戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗」で「日本は戦争を回避するチャンスが3回あった」と指摘する。最後のチャンスは太平洋戦争勃発直前の米日交渉だった。「貿易で世界に進出するなら支援する」と米国が差し出した手を振り払い、日本は真珠湾を攻撃したのだ。
同じ時代を植民地として過ごした韓国はこれらの歴史認識を読んでも気分は良くならない。加藤氏の言葉通り日本が米国の忠告を受け入れていれば、またドイツとの同盟をやめて戦勝国になっていれば、韓国は植民地から抜け出せなかったか、あるいは独立はもっと先のことになっていただろう。韓国の独立は米国との戦争で勝てると判断した日本のミスが大きく影響した。これが日本の敗戦に対する韓国の歴史認識であるべきだ。「日本は力の論理で歴史を反省する国」という事実も忘れてはならない。そんな国と共同で繁栄を追求し、北朝鮮の核の脅威にも共に対処することが韓国の宿命であることも理解すべきだ。だからこそ武蔵のように相手をよく知る必要があり、日本の歴史認識が韓国とは異なるという事実を忘れてはならない。
金泰勲(キム・テフン)論説委員
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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