【記者手帳】三清教育隊での抵抗は「民主化運動」なのか

 1980年8月、京畿道江華郡(現・仁川市江華郡)で農業を営む41歳(当時)の男性が三清教育隊(不良矯正部隊)に連れていかれた。同じ集落の住民とけんかし、酒に酔って農協の建物のガラス窓を割ったという理由だった。軍事政権は当時「戒厳布告13号」を発令し「ならず者」として6万755人を令状なしで逮捕した。このうち、三清教育隊に連れていかれた3万9742人は「純化教育」を口実に暴行を受けた。

 男性は三清教育隊に収容された10カ月の間、数回にわたり軍部に抵抗したという。「罪のない国民を捕まえて殴りつける全斗煥(チョン・ドゥファン)政権や軍当局の責任を問う」と主張したが、さらにひどい暴行を受け、左足に障害を負ったという。

 このため、男性は2001年、民主化運動補償審議委員会に補償金の支給を申請したが、06年と昨年の2回にわたり却下された。同委員会は当時(1)男性が三清教育隊に収容された理由が民主化運動ではない(2)三清教育隊で障害を負ったというのは本人の主張にすぎない(3)04年に「三清教育隊被害者の名誉回復及び補償に関する法律」が制定されたとき同法に基づき補償を受けることもできた-という理由を挙げた。

 だが、ソウル行政裁判所は最近、男性が三清教育隊に収容されていた当時の抵抗が「民主化運動」に該当するとの判決を下した。男性が33年ぶりに勝利を収めたというわけだ。同裁判所は判決理由について「男性が個人的な権利救済という次元を超え、権威主義的な統治に対し直接抗議し、民主的な憲政の秩序を確立する上で貢献するとともに、国民の自由を回復、確立するための活動をしていて障害を負ったことから、民主化運動の関連人物と見なすのが妥当だ」と述べた。

 男性が、人権を踏みにじった三清教育隊の教官たちに対し果敢に抵抗したことは事実だ。しかし、男性の行動が直ちに、国民の自由や権利を勝ち取ろうという「民主化運動」につながったと解釈するのは無理がある、と指摘する声が少なくない。

 民主化運動補償審議委員会が補償金支給申請を2度にわたり却下したことと、裁判所の判決の間に、どのような経緯があったのかは詳しくは分からない。だが、裁判所が今回のように、民主化運動の概念を拡大解釈すれば、当時の韓国社会の各界各層で独裁政権に立ち向かった人たちの「民主化運動」との整合性をめぐり、混乱に陥るのではないだろうか。

韓慶珍(ハン・ギョンジン)記者
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