【コラム】韓国の「国父」、2人いては駄目なのか

民主主義国を樹立した李承晩
統一の努力をやめなかった金九
二人とも「未完の指導者」だったが、二人が韓国をあるべくした

 キム・ジンヒョン元科学技術処長官が、最近出版した回顧録でこんなエピソードを紹介した。1993年に金泳三(キム・ヨンサム)大統領が就任した後、青瓦台で一緒にククス(麺料理)を食べながら大統領と会っていたとき、その席で「韓国の現代史論争を正そうと思ったら、白凡・金九(キム・グ)を確実に韓国の正統性として抱えなければならず、李承晩(イ・スンマン)と金九の子孫が和解する様子を見せてやらねばならない」と建議したという。

 それでこそ、白凡の業績に対する解釈が反韓国の左派側に偏るのを防ぐことができる-という提言だった。だが金泳三は、すぐにこんな反応を示したという。「いやいや、李承晩は独裁者だって。独裁者」。金九については別に関心すら示さなかったという。金・元長官はこのように語った。「こんにち、この地における理念対立の根底には、単に親北対反共という図式にとどまらず主流派内の自己アイデンティティー喪失にも大きな源流がある」

 李承晩と金九に言及する現代史関連の記事を書くと、コメントは二分されがちだ。一方では、李承晩を「米国の手先として分断を固定化した人物」と決め付け、他方では金九を「大韓民国の樹立に最後まで反対した親北協力者」とけなす。驚くべきことに、これは1948-49年に起きた二人に対する非難とあまり違わない。こんな見方は果たして穏当なのか?

 李承晩を批判する人々は、彼を「分断の元凶」と見なし、彼が南側単独政府樹立に言及した1946年6月の井邑発言が南北分断の契機だと主張する。しかし1946年2月に38度線以北で先に立ち上げられた北朝鮮臨時人民委員会が、事実上韓半島の最初の単独政府であって、金日成(キム・イルソン)独裁の道を開いたという事実は看過している。

 韓半島全域にわたる総選挙によって統一政府を樹立するというのは既に不可能で、赤化統一か、そうでなければひとまず自由民主主義と市場経済を基盤とする南韓だけの単独政府を樹立するという、二つの選択肢しかなかった。共産主義の実体がきちんと分かっていなかった当時としては疑問の残る選択だったかもしれないが、およそ70年に及ぶ南北の歴史は、李承晩の道が正しかったことを語ってくれている。「米国の手先」という主張は、米軍政が終始李承晩を厄介者と見なし、中道派を支援していた歴史的事実と合致しない。

 「金九は大韓民国樹立と関連がない人物」という他方の主張もまた、実際の歴史とは異なる。大韓民国臨時政府主席だった金九は1945年11月、米軍の輸送機便で帰国した後、その存在自体が李承晩と共に大韓民国政府樹立勢力の求心点となった。信託統治反対運動をはじめとする数々の政治的行動において李承晩と手を組み、民衆を団結させた。単独政府樹立を目前にして李承晩と意見をたがえ、見込みのなかった南北交渉に飛び込んだが、「統一民主主義国家樹立」という夢が根本的に違っていたわけではない。

 ならば、いわゆる「百年戦争」に類する歪曲(わいきょく)された視点が示すように、金九の臨政勢力は大韓民国樹立に参加しなかったのか? そんなことはなかった。副大統領の李始栄(イ・シヨン)、国会議長の申翼煕(シン・イクヒ)、首相兼国防長官のイ・ボムソクなど幾人もの臨政関係者が、発足したばかりの大韓民国政府の要職を務め、金九が死去した後、チョ・ソアンのような臨政系の人物は5・30選挙を通して国会に進出した。6・25が起きていなかったら、韓国初期の政治構図はかなり違っていただろう。

 統一民主主義国家樹立という彼らの夢は完全には実現され得なかったという点で、李承晩と金九は共に「未完の国父」と言える。ひょっとするとこの二人は、それぞれ現実と理想、政府樹立と統一、民主主義と民族主義、権力と在野を代弁しつつ、互いが互いを補完する存在だったのかもしれない。韓国の国父は必ず一人であるべき、という法はない。

兪碩在(ユ・ソクチェ)記者

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  • ▲1946年、米軍政諮問機関である民主会の昌徳宮会議を終えて、記念撮影を行う李承晩と金九。/写真=大韓民国歴史博物館

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