「日本の古墳から百済の金銅冠…韓日交流は深いという事実を学んだ」

第43回・日本の中の韓民族史探訪…韓国の大学生・一般人など150人が参加

 奈良県明日香の高松塚古墳の壁画では、高句麗壁画の痕跡を目で確認した。学生のハン・チャンフンさん(建国大学1年生)は「高松塚の壁画は本で見たことしかなく、直接見ると新たに実感が湧いてくる」とし「文化交流の現場に接し、韓日間の望ましいコミュニケーションについて考えてみるようになった」と語った。日本初の仏教寺院・飛鳥寺は百済の王興寺が原型という事実を知り、京都の広隆寺では、新羅の金銅弥勒菩薩(みろくぼさつ)半跏思惟(はんかしゆい)像(韓国国宝83号)とうり二つの木造弥勒菩薩半跏思惟像と対面した。徐程錫教授は「飛鳥寺を建てる際、百済が日本に技術者を送った」とし「日本初の仏教文化である飛鳥文化を花咲かせる上で決定的役割を果たしたのが百済」と語った。

 日本に存在するのは、交流の痕跡だけではない。侵略と対立のつらい歴史もある。冷たい海風が吹く下関の海岸には、日清戦争に勝利した後、日本が朝鮮に対する支配権を確固たるものした「下関条約」(1895年)を締結した場所が再現されている。壬辰倭乱を起こした豊臣秀吉が朝鮮侵略の前進基地にした肥前名護屋城跡では、静かなため息が漏れた。韓日間の長い交流を断絶させた不幸な歴史がここから始まったのだ。学生のカン・ハヨンさん(漢陽大学1年生)は「日本が緻密に戦争の準備をしている間、朝鮮は備えることができずにいたと考えると残念」とし「歴史は一つの方向に流れるわけではなく、交流と対立が繰り返されるということをあらためて学んだ」と語った。

 ソン・スンチョル江原大学名誉教授は「韓日両国は敵対的関係ではなく共存と共生へ進んでいく関係」とし「あちこちに残る遺跡や遺物が、こうした歴史を証言している」と語った。

大阪・奈良・熊本=チョン・ノクヨン記者

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  • ▲徐程錫・公州大学教授が12月7日、奈良県にある日本最古の仏教寺院「飛鳥寺」で、「第43回 日本の中の韓民族史探訪」に参加した大学生らに説明しているところ。/写真=チョン・ノクヨン記者

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