2月6日の大地震で、トルコだけでも4万人を超える人が亡くなった。現場に急派された韓国の緊急救助隊が、建物の残骸から消えつつあった生命を救い出し、民間と企業の救護物品の行列が続く人類愛の現場を見ていて、2002年韓日FIFA(国際サッカー連盟)ワールドカップの3・4位戦における友情、6・25戦争で自由と民主主義を共に守った血盟の価値を思い起こした。
トルコと韓国の距離は8000キロに迫る。1957年に国交を結んだが、1950年の6・25戦争当時は「兄弟の国」を語る関係ではなかった。ならばトルコはなぜ、遠く、なじみのない韓国の地に延べ2万人以上を派兵し、およそ1000人の戦死者を出しながら熾烈(しれつ)な戦闘を辞さなかったのだろうか。韓国国防部(省に相当)の軍史編さん研究所によると、トルコの参戦は「危機に直面した国に対する援助」や「国連加盟国としての義務の遂行」のような理想的、博愛主義的動機によるものではなかった。むしろ、ソ連の脅威に対抗し、米国と北大西洋条約機構(NATO)という同盟の「安全保障の傘」に組み入れてもらうため有利な条件を先んじて得ようとする、徹底した現実主義的計算から出ていたのだ。
第2次大戦後、東欧ではソ連の西進政策で各国がドミノのように倒れていった。米国が1947年にトルーマン・ドクトリンを通して経済的・軍事的援助を約束したが、自国の領土に対する野心を露骨に示すソ連と国境を接していたトルコは、不安なだけだった。NATO加盟を推進したが、欧州各国との地域的距離、イスラム国という状況が足を引っ張っていた。
そんな折に起きた6・25戦争は、トルコの立場からすると見逃せないチャンスだった。「韓国派兵がNATO加盟への橋渡し役を果たすだろう」という、当時のアドナン・メンデレス首相の発言のように、「信頼できる安全保障パートナー」という認識を米国に植え付ける絶好の舞台だった。トルコは開戦から1カ月もたたない1950年7月18日、秘密裏に内閣の会議を招集して大規模派兵を決定した。3カ月後の10月17日、トルコ軍が釜山に到着した。
ちょうどこのころ、中共軍が戦争へ本格的に介入した。それまで散発的な戦闘を続けていた中共軍は、平安南道の清川江付近で起きた軍隅里の戦いから大々的な攻勢に入った。派兵後初めて繰り広げられたこの戦いで、トルコ軍は将兵およそ200人が戦死し、重火器や車両の70%を失ったが、敵の攻勢を遅延させて他の国連軍の被害を防いだ。当時壮烈に戦死したムスタファ・チェリク、ムハレム・コシクンなど二十二、三歳の若い兵士たちの亡骸が、釜山の国連記念公園に眠っている。およそ10個の青銅の墓標に刻まれた戦死の日付は、いずれも同じ1950年11月29日。再び戦列を整えたトルコ軍は、翌年1月の竜仁・金良場の戦い、151高地の戦いなどで銃剣の白兵戦も辞さぬ強靭(きょうじん)な戦闘力を発揮し、中共軍を相次いで撃退した。最終的に、同盟に向けた「真剣さ」が認められ、トルコは1952年2月18日にNATOへ加盟した。創設12カ国を除くと、NATOがギリシャと共に初めて受け入れた国だった。
新現実主義(Neo-realism)理論を唱えた国際政治学者のケネス・ウォルツは「外交政策で最も優先すべきは生存と国家の安全保障」だとし、このための代表的な手段として「同盟」を挙げた。トルコは、危機に直面した新生韓国を救うという名分で参戦したが、背景には国益を極大化するための冷静な現実論に基づいた戦略があったことを忘れてはならない。だが、遠く離れた見知らぬ地で血を流して戦ったトルコ将兵の高貴な犠牲精神に対する感謝の気持ちには、少しも変わりはない。
国益極大化を押し立てた各国の組分けが、いつになく激しい。自らの犠牲を甘受せず口ばかり先立たせる「まやかしの同盟」で、厳しいこの時代を切り抜けていけるだろうか。「自由と平和を享受する資格」について熟考してみるべきだ。
チェ・ソンジン記者