ウラジオストクと中ロ蜜月【萬物相】

 ロシアは1856年に絶望的な状況にあった。クリミア戦争で敗れ、パリ講和会議で領土が奪われてしまった。何よりも地中海に出る黒海の軍港を失ったことが大きかった。英国と世界の覇権を巡り「グレートゲーム」を行っていたロシアにとっては大きな打撃だった。不凍港が絶対に必要なロシアが目をつけたのがユーラシア大陸の端にあるウラジオストクだった。ロシアは第2次アヘン戦争を戦っていた中国を脅迫した。1858年に黒竜江省北部、アムール川沿いの愛輝(アイグン)で不平等条約を締結し、沿海州地域を全て手にした。「東を征服する」という意味のウラジオストクの歴史がロシア語で記録されるようになったのだ。

 ウラジオストクは韓国、中国、日本から近いため、ロシアは当時の首都だったサンクトペテルブルクに匹敵する都市に築こうと総力を傾けた。極東の海軍基地と自由貿易港を同時に建設する計画を着々と進めていった。角の形に入り組んだ湾にトルコのイスタンブールにある金角湾(ゴールデンホーン)と同じ名前をつけ、黒海を確保できなかった悔しさを補おうとした。1891年のシベリア横断鉄道着工式には当時皇太子だったニコライ2世が出席した。当時商人だったユル・ブリンナーの祖父がこの地を東北アジアの主要な港とすることに貢献した。

 帝国の復活を夢見るプーチン大統領はここを中心に太平洋時代を切り開くと宣言した。APEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議もここで開催した。2015年からは毎年韓国、中国、日本、モンゴルを招待し、東方経済フォーラムを開催している。2018年にはロシア極東管区の行政首都をハバロフスクからウラジオストクに移した。

 沿海州全体は高句麗の領土だったが、後に698年に建国した渤海の地になった。韓国人の先祖たちはウラジオストクを海参威と呼んだ。1860年代から韓人たちが移住し、新韓村が形成された。周辺の道路は韓人ストリートを意味する「カレイスキー・スカヤ」と命名された。1900年にウラジオストク東方大学は世界で初めて韓国文学科を開設した。李東輝(イ・ドンヒ)や申采浩(シン・チェホ)など日帝時代独立闘士の活動舞台でもあった。安重根(アン・ジュングン)義士が「断指同盟」を結成したのもウラジオストクだ。

 ウクライナ侵攻で窮地に追い込まれたロシアが中国にウラジオストクの港の使用権を与えた。この結果、かつての領土を通じて東海に進出するという中国の野望が実現した。一部学者の間からは「このままだとロシアは国力を失い、沿海州から中国に事実上追い出されるのでは」との見方も出始めている。今後中国艦隊がこの港を拠点とする可能性も考えられる。ウラジオストクに登場した中国が韓国の安全保障にいかなる影響を及ぼすかも見守っていかねばならない。

李河遠(イ・ハウォン)論説委員

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