日本の国家主義が強要した「崇高な犠牲者」…彼らの沈黙は絶叫だった

日本の国家主義が強要した「崇高な犠牲者」…彼らの沈黙は絶叫だった

【本でイシューを読む】韓日首脳の慰霊碑訪問に見るヒロシマ

李実根〈イ・シルグン〉著、ヤン・ドンスク、ヨ・ガンミョン訳『私のヒロシマ』(論衡刊、208ページ、1万4000ウォン〈約1500円〉)

大江健三郎著、イ・エスク訳『ヒロシマ・ノート』(三千里刊、203ページ、1万2000ウォン〈約1280円〉)

 「尹大統領はこの日の午前7時35分、岸田首相と会い、広島平和記念公園にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑を共に訪れた。韓日首脳が慰霊碑を共に訪れるのは初めてで、韓国大統領が慰霊碑を訪れるのも初。この訪問には韓国の金建希(キム・ゴンヒ)大統領夫人と日本の岸田裕子・首相夫人も同行した。両首脳夫妻は慰霊碑に献花し、頭を下げて10秒間黙とうした。韓国原爆被害者対策特別委員長を務めた朴南珠(パク・ナムジュ)さんや、被爆2世の権俊五(クォン・ジュンオ)在日本大韓民国民団副委員長など韓国人原爆被害同胞10人も同行した」(本紙2023年5月22日付A3面)

■人間扱いされなかった「在日被爆者」

 「15歳の私は、原爆の地獄を目の前で体験した。それでも、死者14万人の中に、およそ3万人に上る朝鮮・韓国人被爆者は含まれなかった。私たちを人間にもしなかったのだ」

 広島県朝鮮人被爆者協議会(広島朝被協)会長を務めた李実根さん(1929-2020)の自叙伝『私のヒロシマ』(原題『Pride 共生への道-私とヒロシマ』、2006)は、在日同胞被爆者としての人生、そして日本人だけが唯一の被爆者ではないと世界に向けて叫んできた旅を収めている。現在、韓国国内に紹介されたヒロシマ関連の書籍の中では珍しく、原爆被害同胞が経験した苦難に焦点を合わせている。自らを皇国臣民と思い、軍人になることを夢見ていた朝鮮人少年が、「鮮人」と呼ばれて学校で差別され、被爆を契機として民族のアイデンティティーに目覚める過程を事細かにつづった。

 在日2世として山口県で生まれた李さんは、広島に原爆が投下された翌日の1945年8月7日、「入市被爆」に遭った。入市被爆とは、原子爆弾が投下されてすぐ被害地域へ入り、残留放射能による放射線の影響を受けたことを指す。田舎でコメを買って都市で闇取引していた彼は、家族と共に神戸でコメを売り、山口へ戻るため汽車を乗り換えようと広島に入り、被爆した。李さんは、当時の惨状をこのように描写する。

 「当時、広島の街には七つの川が流れていた。全ての川にアシが繁っていて、引き潮で多数の遺体が引っ掛かり、容易に目に付いた。どこを見ても地獄と変わらなかった。真夏の太陽がぎらぎらと照り付ける地面からは、鼻が曲がりそうな死臭と腐敗臭が立ち上るばかりだった。激しい吐き気がこみ上げ、恐怖と戦慄が全身を襲った」

■「白いチョゴリ」の被爆者7万人

 日本の敗戦当時、45年8月の時点で240万人近い朝鮮人が日本に住んでいた。李実根さんは「広島・長崎で生活していた朝鮮人は『原子爆弾』にやられて、二つの都市を合わせておよそ7万人が被爆し、4万数千人が犠牲になった」と書いた。

 日本人被爆者組織は56年に結成された。原水禁(原水爆禁止)運動と共に活発な活動を展開した。原爆被害者運動の内部からは「日本人唯一被爆者論」が提唱された。日本政府は、原爆「被害国」であって「唯一の被爆国」であるという認識を基に戦争責任を回避した。「私たち在日朝鮮人原爆被害者の存在感は微々たるもので、事実上『はざまの被爆者』として世間から忘れ去られた」

 広島朝被協が結成されたのは75年8月2日。朝鮮人を含む援護法制定を求める訴えを発表した。朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)幹部だった李実根さんは、朝被協結成を巡って総連上層部と摩擦を起こし、仕事を失った。焼き肉屋をしながら活動を続けた。77年には広島市内に住む朝鮮人原爆被害者の実態調査事業を始めた。78年にニューヨークで開かれた第1回国連軍縮特別総会に参加し、79年には朝鮮人被爆者の人生についての証言集『白いチョゴリの被爆者』を出した。

■「崇高な犠牲者」はいない

 ノーベル文学賞受賞作家の大江健三郎(1935-2023)は『ヒロシマ・ノート』で、街の子どもたちに「頭のおかしい朝鮮人ばあさん」と呼ばれていた、広島の韓国人老婦人に言及している。老婦人は原爆で5人の子を全て失い、自らも首から胸まで、そして両腕にひどいケロイド(被爆者特有の火傷痕)がある。大江が読んだ新聞の記事によれば、一時「原爆を投下した米国を呪い、戦争を起こした日本を憎んだ」というこの老婦人は、キリスト教の信仰によって恨みと憎しみを克服する。「私は日本人だとか韓国人という問題は脇へ置いて、子どもを5人も失った母親として、原水爆禁止を望むだけです」

 大江健三郎は、原爆20周年に合わせて64年から65年にかけて広島を訪れ、被爆者やその家族にインタビューした同書で、共産党系列と社会党系列に分裂した反核団体に対する批判的視点を堅持している。保守か革新かという政治色とは関係なしに、全国民的平和運動を繰り広げなくてはならない、とも語る。戦争の論理と「ナショナリズム」の陰で、「崇高な犠牲者」と見なされ、「悲惨さの正当化」を強要されて沈黙してきた被爆者らの声に耳を傾けるべきだと主張する。「被爆者らは肉体と精神の苦痛に耐えて絶叫の声を上げたが、すぐに巨大な誰かの手が彼らの口を封じたのだ」。ヒロシマの原爆被害同胞らに韓国政府と国民が示すべき態度も、こうした支持と関心だろう。

クァク・アラム記者

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