「無念の死刑宣告」…韓国人イ・チョルスを救った日系の友人

当時の事件を追ったドキュメンタリー映画公開

 彼女は日系3世で、カリフォルニア大学(UC)サンタクルーズ校に通っていた1972年の夏、サンフランシスコのチャイナ・タウンで母親の店を手伝っていてイ・チョルスと知り合った。ヤマダ弁護士は「店を閉めて出たらチョルスと会い、ククス(麵料理)を食べて親しくなった」とし「チョルスは社交的で、楽天的な青年だった。街の真ん中で人を殺しかねない人間ではなかった」と語った。ヤマダ弁護士は翌年、チョルス事件のことを新聞で見て知った。驚愕(きょうがく)した彼女は、収監されたイ・チョルス宛てに「あなたは殺人者じゃないと信じている」という手紙を書くことから始めた。イ・チョルスのために戦う意欲のある弁護士がいないという事実も知った。「誰も助けてあげようとしない悪夢。それはチョルスだけの問題や韓国人だけの問題ではないと考えました。私にできることをやろう、と決心したんです。弁護士になるためUCヘイスティングス・ロー・スクールに進学して、後に弁護人団へ合流しました」。イ・チョルスは後に「ランコの友情は私の暗い世界において純粋な光だった」と述懐した。昨年他界した柳在乾(ユ・ジェゴン)元国会議員=第15代-17代=も当時、米国の弁護士として救命に参加した。

 ヤマダ弁護士は、イ・チョルス釈放運動を行う中で夫にも巡り会った。募金のためにコメディーイベントをしていた日系3世だった。「あのときは、東洋人であれば一つでした。チョルスが釈放された日の興奮は今も忘れられません」

 イ・チョルス釈放は米国のマイノリティーが連合して起こした最初の人権勝利だった。もともと韓人社会はよその民族に対して排他的だったが、この事件の後、和合して協力しなければならないという認識が高まった。ドキュメンタリーは、イ・チョルスをヒーローとしてのみ描写はしていない。彼が出所後、日常に適応できず、麻薬に溺れたことまでありのまま収めている。ヤマダ弁護士は「私の費用で、麻薬からの立ち直りプログラムにも入れてあげましたが、現実の暮らしは彼にとってあまりにも重荷だったようです」と語った。イ・チョルスはギャング団の放火に加担したものの、証人保護プログラムに入って隠遁(いんとん)生活を送り、その最中に持病が悪化して2014年に亡くなった。

 ヤマダ弁護士は「チョルスが亡くなる数年前の、あいさつの電話が最後だった」とし「韓国人であろうと日本人であろうと、同志愛を通して一緒に多くのことを成し遂げることができるということを分かってもらえるとうれしい」と語った。チョルスに言えなかった言葉も忘れなかった。「チョルス、この驚くべき、素晴らしくて美しい物語を、人々が映画にしたのよ。あなたと私がこの映画の中に一緒にいる、すごくありがたいことじゃない?」

申晶善(シン・ジョンソン)記者

【写真】無罪判決を受け弁護人団と共に喜ぶイ・チョルス

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