「高麗連邦制」を通じた対南吸収統一、50年の幻想から目覚めた北朝鮮【寄稿】

 カルタゴの将軍ハンニバルは紀元前218年、2万6000人の少数兵力でアルプスを越えてローマに侵攻した。当時、欧州最強国だったローマは、毎年9万人の大兵力を動員して徹底抗戦したものの、ハンニバルの神出鬼没な戦略で連戦連敗を余儀なくされた。ハンニバルはその後16年間もイタリア半島を縦横無尽に駆け巡りながら、10余りの都市国家で構成されたローマ連合の構成国がローマを裏切ってカルタゴに自ら服属してくるのをひたすらに待った。しかし、ハンニバルの軍隊の圧倒的な威勢にもかかわらず、ローマを裏切った都市国家は1、2カ国にとどまったことで、結局ハンニバルによるローマ征服は失敗に終わった。

 韓国戦争(朝鮮戦争)当時、南労党総帥の朴憲永(パク・ホンヨン)は北朝鮮軍がひとまずソウルを占領すれば、韓国全域で左翼勢力が蜂起するため、南北統一は容易に達成できると豪語していた。しかし、北朝鮮が期待していた蜂起は、一切起こらなかった。2022年にウクライナに侵攻したロシアは、ひとまずウクライナ合併のための戦争の旗印さえ掲げれば、ウクライナ全域で親ロシア勢力の蜂起が続き、3日で占領できると期待した。しかし、ウクライナ領内で親ロシア蜂起は起きなかった。このような現象は、習近平が台湾に侵攻しても同じことだろう。

 北朝鮮は、金日成(キム・イルソン)主席が1973年に「高麗連邦制」方式の平和統一を提唱して以来、50年間これを固守してきた。これは、南北がそれぞれ従来の政治体制を維持しながら、一つの連邦制国家として統合しようという主張だ。その主張の背景には、連邦制統一が実現すれば、韓国内の親北勢力による協力で北朝鮮が連邦政府と議会で圧倒的な主導権を掌握するという計算があった。これは、いわば北朝鮮方式の「平和的対南吸収統一構想」だった。

 北朝鮮は、過去の韓国に対する軍事的優位が次第に崩れ、1990年代に入って武力統一の可能性が急速に低下すると、非軍事的方法で韓国を吸収統一するための高麗連邦制と平和体制構想に執着した。これを実現するためには、韓国内の友好勢力の積極的な呼応が必須だが、実際は北朝鮮の期待にはるか及ばないものとなった。2000年に金大中(キム・デジュン)大統領との間に交わされた6・15南北共同声明で「低い段階の連邦提案」を巡り意見の歩み寄りが見られ、07年に盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領との間で交わされた10・4南北共同宣言で「6・15宣言の積極的具現」が合意を見たものの、18年に交わされた文在寅(ムン・ジェイン)大統領との9・19平壌共同宣言では連邦制統一問題が姿を消してしまった。

前のページ 1 | 2 次のページ
<記事、写真、画像の無断転載を禁じます。 Copyright (c) Chosunonline.com>
関連フォト
1 / 1

left

  • ▲写真=UTOIMAGE

right

あわせて読みたい