映画が歴史に勝ってもいいのか【朝鮮日報コラム】

『ソウルの春』『華麗なる休暇』『1987』など…
韓国映画界は現代史分野における積極的なプレーヤー
虚構を事実と錯覚する危険あり
偏狭な歴史意識の拡大を防げ

 少し前のことだ。小学6年生の息子が、友だちと『ソウルの春』を見に行った。子どもたちまで「面白かったって? 僕らも一度見よう」と飛びつくほどなので、1000万人映画の底力というものをあらためて実感した。映画界に長年身を置いてきたある知人は、観客動員1000万人超えを狙うのなら、500万人くらいになった時点から、2度見3度見するリピーターが発生しなければならず、青少年まで巻き込んで一つの「現象」になる-と語った。まさにその通りだった。しかもこの映画は12歳以上鑑賞可と、年齢制限が低くなっており、冬休みの「小学生観客」相手の商売も随分いけそうだった。

 映画を見て戻ってきた夕方のこと。子どもたちは興奮していた。反乱軍に立ち向かって作戦を展開する軍人の姿がかっこよかったと言っていた。劇中のイ・テシン(チョン・ウソン)のことを言っているのだった。子どもたちに、劇中の人物のモデルは故・張泰玩 (チャン・テワン)将軍だが、実際には幸州大橋や光化門へ部隊を率いて向かったことはない-と話してあげた。クーデターが成功して新軍部が政権を掌握した後は公企業の代表も務め、後日、野党の国会議員にもなったという話を聞かせた。一種の「ファクトチェック」をしてあげたわけだ。「お父さん、僕も映画と実際は違うことは知ってるよ」。無心に語る子どもの様子に安堵(あんど)した。だが、映画の中の虚構が、その小さな胸の内に事実のごとく根付くのではないかと引き続き警戒し、見守る気でいる。

 米国の学界で、映画の中の歴史が記憶に及ぼす影響を調べる実験をしたことがある。大学生に『アマデウス』『ラストサムライ』といった歴史的背景を持つ映画6本の一部の場面を見せた後、動画の誤りを指摘した文書を読ませた。一定期間が経過した後に試験をしてみたところ、驚くべきことに、参加者の3分の1が、映画の誤った内容を事実(fact)として記憶していた。これを訂正するのは決して容易ではなかった。動画にさらされるだけでも、記憶は容易に汚染されたのだ。ニューヨーク・タイムズ紙は2015年、「映画の中の『事実』が勝つ理由(Why movie “facts” prevail)」という記事でこのことを紹介し、映画の中の歴史情報をそのまま受け入れてはならず、批判的に受容すべきだと主張した。だが、映画というジャンルは、絶えずこれを妨害するのが特徴だ。

 韓国は、歴史解釈の権限を巡ってヘゲモニー争いが激しい国だ。特に現代史分野において、韓国映画界はこれまで極めて積極的なプレーヤーとして活動してきた。『ソウルの春』以前にも『光州5・18』(2007)、『南営洞1985~国家暴力、22日間の記録~』(2012)、『タクシー運転手~約束は海を越えて』(2017)、『1987、ある闘いの真実』(2017)など、既に長いリストが存在する。まるで韓国の全国民を対象に、映画を通した「記憶実験」をしているようなもので、1980年代を題材にした映画はことのほか多い。

 ひとたび映画として作るとなると、ドキュメンタリーではない以上、事実の加工やドラマ的要素の加味は避けられない。映画は、この過程で、遠慮なく歴史を犠牲にしたり損なったりする。「映画の中の虚構は実際の人物や事件とは関係ありません」という類いの文言は、たいして効果もない。虚構は、人々の記憶の中でリアルと混じり合い、一つの時代に対する「集団記憶」を新たに再構成する。ここでは、青少年をはじめ当時まだ生まれていなかった世代までが、映画を通して当時を疑似体験している。

 このような映画が登場し続けているのを見ると、386世代(1960年代に生まれて80年代に大学へ通い、90年代に30代となった世代)に代弁される特定世代の世界観は、こうしたやり方を通して文化的遺伝子として後世に伝えられるのだろう。このごろは学校でデリケートな現代史の話をきちんと持ち出すこともできず、映画が1980年代についての「歴史教育の現場」になっているわけだ。次の世代が、こういう人々の偏った世界観にばかりさらされないように、豊かな文化的資産を残してやる方法を真剣に考慮しなければならない。

シン・ドンフン記者

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  • ▲観客動員1000万人を超えた映画『ソウルの春』/NEWSIS

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