韓国にやって来るフィリピン人家政婦【萬物相】

 韓半島に「食母(女中)」という職業が登場したのは、日帝強占期に日本から渡ってきた家族が朝鮮の女性を雇用したときからだ。1938年に日帝が調査した植民地・朝鮮の女性求職者は2万7000人だったが、このうち「食母」として就職した人は90%近い2万5000人だった。それほど食母は代表的な女性の職業だったのだ。わずかではあるが、月給ももらえた。しかし、解放後に起きた6・25戦争(朝鮮戦争)で多数の戦争孤児が発生すると、「飢えない程度に食べさせておけば、月給は渡さなくてもいい」職業へと転落した。給与が1カ月分のたばこ代にもならないほど低く、1960年代にはソウルの家庭の52%が食母を雇っていたほどだった。

 韓国が貧しかった1960年代、食母のほかに女性が選べた数少ない職業が女工とバスガイドだった。女性たちが稼いだ金で家族は生活費をやりくりし、兄弟姉妹が勉強した。中にはドイツに看護師として渡る女性もいた。そのように粘り強い女性の中には、食母として生計を立てながらも昼耕夜誦(貧しい生活をしながらも勉学に励むこと)で未来を切り開き、大学の総長になり、自己開発に取り組み画家として成功した人もいる。

 フィリピンの女性たちは今、半世紀前の韓国の女性と同様の立場にある。1960年代までアジアでは日本の次に豊かで、1人当たりの国民所得が韓国の2倍だった国が、ここ半世紀の間に没落し、全世界に低賃金労働者を200万人以上も送り出す立場になった。フィリピンの女性が海外で就業する場合、主に家政婦として働くという。欧州・中東・日本・シンガポール・香港などに進出している。香港で働けば、給料が最低賃金程度だったとしても、フィリピンでは医師の収入と同等だ。そのため、苦労すると分かっていても腹を決めて外国での家政婦という道を選ぶのだ。

 韓国で家事や育児を支援するフィリピン人たちが、今年8月ごろに韓国の地にやって来る。韓国では共稼ぎ夫婦の増加や高齢化によってヘルパーの需要が増えているが、国内の人材だけでは供給が追い付かないため、フィリピン人を受け入れることにした。既に「フィリピンのおばさん」という呼び名まで付いている。せっかく受け入れるのだから、韓国とフィリピン両国にとってプラスになればと思う。一部の中東の国々は、フィリピン人の家政婦を虐待したり性的暴行を加えたりして国際的な非難を浴びた。韓国ではそのようなことがあってはならない。わずか半世紀前は、我々が彼女たちの立場だったのだ。

 1960年代、低賃金労働に苦しめられていた食母やバスガイド、女工は「サムスニ」と呼ばれて見下されていた。サムスニの人生を描いたとある本で、10代の少女がつづった文章を読んだことがある。稼いだ金を大切に取っておいて弟や妹たちにパンを買ってやったときのことを「この瞬間ほど汗を流した甲斐があったと感じたことはない。疲れも屈辱も私のものではない」と表現した。少女は恐らく私の母と同世代だ。この少女の犠牲を抜きに現在の豊かさを説明することはできない。この地にやって来るフィリピンの女性たちの苦労もいつか報われることを願う。

金泰勲(キム・テフン)論説委員

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