毎年4月初めになりさえすれば、済州4・3事件を振り返るドキュメンタリーが盛んに見られる。かつて4・3は「国家暴力」であると言われたりした。間違いではない。4・3鎮圧の過程で罪もない住民が犠牲になった。二度と繰り返されてはならない、韓国の歴史の悲しき一部だ。しかし私と対話を交わしたこのおばあさんたちも「国家暴力」の犠牲者なのか?
単に父親が面事務所に務めているという理由で、無残に殺害されるのを目撃しなければならず、兄たちが軍人だという理由で暮らしていた家が放火され、単に税関に務めているという理由で危害を加えられるのではないかと思って恐怖に震えなければならなかった。これも「国家暴力」なのか?
1948年4月3日に南労党済州島党は暴動を起こした。済州島内の警察支署12カ所を襲撃して警察官、公務員、その家族を無残に殺害した。その後も「選挙に参加した」という理由で住民を殺し、公務員やその家族に対する虐殺を続けた。当初、暴動の目的は選挙妨害だったが、大韓民国政府樹立後は韓国憲法を否定し、政府そのものを相手に抗争を行ったのだ。4・3鎮圧の過程で多くの人が犠牲になったのは残念なことだが、暴動の目的そのものは「内乱」にほかならない。
これに対して当時の米軍政は、軍事力で対応した。4月5日に済州非常警備司令部を設置し、4月17日に済州島駐屯の国防警備隊9連隊に事態鎮圧を命じた。敵との交戦ないし極度の社会秩序かく乱により警察力だけでは秩序回復が難しいときに軍隊を投入すること。これが戒厳の定義であるとするなら、当時の米軍政は、南労党の内乱の試みに対して戒厳令で対応したことになる。その後、韓国政府が樹立されてから、48年10月に国軍第14連隊が済州4・3鎮圧命令を拒否したとき、韓国政府の史上初の戒厳令が宣布されたが、戒厳の本来の意味を読み解くと、南労党の暴動に対応して済州非常警備司令部を設置するために米軍政が公布した済州道道令こそ、韓国の地に宣布された「最初の戒厳令」と言えるだろう。
淡々とした話しぶりでぞっとするような過去を回顧するおばあさんたちの前で、私は心の中で何十回も「すみません」と繰り返した。そして、目の前で家族が無残に殺害される様子を見なければならなかった、その「9歳の少女」を、ひしと抱き締めてあげたかった。済州4・3の「国家暴力」については、2003年に当時の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が公式謝罪したことがある。しかし、私と対話を交わしたこのおばあさんたちが直面した「共産内乱勢力の残忍な暴力」については、誰に謝罪を要求すべきだろうか? 共産党の無慈悲な暴力で被害に遭った人々とその子孫は厳然として存在するのに、この人々のためには誰一人、謝罪要求すら持ち出さない。歯がゆく、残念な現実だ。
張富丞(チャン・ブスン)関西外国語大学外国語学部教授