百済王の秘密が明らかに…公州・王陵園2号墳のあるじは14歳の三斤王

■金の耳飾り、指輪…ハイレベルな百済の金属工芸

 奥歯と共に新たに出土した副葬品は、そのような政治的混乱期の中でもハイレベルな百済の金属工芸文化を示していた。最も目立つ金の耳飾り1組は、長さ6.5センチで、1点のみ完全な形で残っていた。耳飾りの真ん中の部分で、しま模様の装飾を刻んだ網状のカバーの中に青いガラス玉が入っているというデザインの精巧な遺物で、高度な金細工技術が現れている。イ・ハンサン大田大学教授は「6世紀初めの武寧王妃の耳飾りの原型を示す、優れた制作技術」と評価した。

 併せて2号墳から出土した直径1.9センチの指輪は、銀にしま模様を刻み、5本の金糸をつなぐようにメッキを施したもので、成人男性の指にはめるには難しいサイズ。慶州の皇南大塚から出土した新羅の指輪と様子が似ており、当時の百済と新羅の交流を示してくれている。鉄に銀をかぶせて装飾した剣のつかにある五角形の飾りは、論山や羅州でも見つかったもので、百済王室が地方の首長層に下賜したものとみることができる。

■「百済の熊津時代初期、思っていたより政治的・外交的システムは堅固」

 併せて収集された1000点のガラスビーズのうち、黄色・緑色の玉に使われた鉛の成分は、タイ産のものと分析された。これは、既に武寧王陵出土の玉でも明らかになっていたことだ。東南アジアまでつながる広範囲な交易網が熊津初期のころからずっと運営されていた、という話になる。

 研究所は、こうした調査を基に「熊津時代の初期の時点でも百済の対内・対外政治システムは堅固に維持されていたものとみられる」と説明した。百済はこれを足場に、熊津時代後期の武寧王代に「再び強国になった(更為強国)」と宣言できたのだ。しかし、一部には「歴史書で政治的混乱期と記された熊津時代初期を、副葬品の水準を基に安定期だったかのように歪曲(わいきょく)する恐れがある」という意見もみられる。

 また国家遺産庁は、1971年7月の武寧王陵発掘現場で録音した音声を今年1月に公州市民のイ・ジェフンさんから寄贈され、一緒に公開した。当時の金元竜(キム・ウォンリョン)国立博物館長と金永培(キム・ヨンべ)公州分館長の声で「わが国の墓で、極めて確実な年代の王を持つものは初めて」「簡単に言えば、百済武寧王の陵だ」などの言葉が録音されている。

キム・グァンジン記者

【図】公州王陵園で新たに出土した歯と遺物

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  • ▲グラフィック=朴祥勛(パク・サンフン)
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