日本の右翼が反発するも…朝鮮王朝時代の建築物「観月堂」が100年ぶりに故国へ、鎌倉大仏殿高徳院の境内から解体して移送

建築遺産全体が移送されたのは初めて
朝鮮王室の祠堂建築物と推定
諜報(ちょうほう)戦をほうふつとさせる「韓国返還」

 観月堂は、韓国の学界でも「必ず戻ってくるべき文化遺産」に挙げられていた。10年に、当時の曹渓宗総務院長だった慈乗僧侶が韓日仏教文化交流大会に出席し、観月堂を韓国に返すことで日本仏教界側と合意したと発表したこともあった。だが十分な協議が行われていない状態でメディアの報道を通して発表が先行したことから、日本側で保守・右翼団体を中心に反発が強まり、その後しばらく交渉は中断した。

 協議の糸口を再びもたらしたのも佐藤住職だ。19年に当時の文化財庁(現・国家遺産庁)にまず連絡して、その後、同庁と財団が現地調査、研究、精密実測などを進め、韓日共同プロジェクトにつなげた。昨年6月に建物の解体を始め、11月に瓦3457点と石材および金物401点が韓国国内に移送された。今年5月には木材1124点も極秘裏に移送を終えた。

 この日のメディア公開会で研究チームは「観月堂は大君(国王の嫡子)級の王室祠堂の規模に該当する」と発表した。かつて、韓国の学界では観月堂について「景福宮の建物」と見る意見もあったが、現地調査を行ったソウル大学工学部建築学科のイ・ギョンア副教授は「建物の構造や複数の文献を検討した結果、景福宮の殿閣やその他の宮殿内の建物である可能性は薄い」と述べた。瓦は竜文・蜘蛛(くも)文・鬼面文などさまざまな形態の軒平瓦を使用しており、木材を飾る「丹青」の模様も雲宝紋・卍(まんじ)字文など多彩で、建物の高い位階を示している、と研究チームは付け加えた。

 国家遺産庁は「分析結果を総合してみると、観月堂は、簡単な木架構造(木で作った建物の骨組み)を備えているが、内部は華麗で格式ある意匠を追求した18-19世紀ごろの王室関連の祠堂建築物と推定される」と伝えた。ただし昨年建物を解体した際、上樑(じょうりょう)文などの当時の建築関連資料は発見されず、建物の本来の名称や位置、祭られていた人物などは今後の研究課題として残った。

許允僖(ホ・ユンヒ)記者

【写真】観月堂の3Dスキャンデータと解体作業の様子

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  • ▲高徳院(神奈川県鎌倉市)の境内にあった観月堂。朝鮮王朝時代の王室祠堂建築物と推定される。写真は解体前の様子。/写真=国家遺産庁
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