ところが、突然擁護論が浮上した。所属事務所が「性的暴行行為には関与していない」と根拠もなく発表した直後のことだった。韓寅燮教授はこれに対する批判を「独立運動家の弱点をつかみ、大義をねじ曲げ、そのまま闇に葬る策略(と同じだ)」と言った。検察改革推進団の朴燦運(パク・チャンウン)諮問委員長は「正義ではなく集団リンチだ」と言った。詩詩人・柳根(リュ・グン)氏は「少年院の近くまで行ったことのない若者がどこにいるのか」と言った。『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンに例える文も見た。与党・共に民主党の議員たちも加勢した。誰が見ても道理に合わない話を、知識があって文章を書く人々が次々と出した。政治的偏見が彼らの倫理観を崩壊させたのだ。
数年前の会合で、誰かが有力政治家の過去の話を持ち出したことがあった。「前科があれほどたくさんある人を、なぜ国民の半数が支持できるのか」ということだ。この問いに、法曹界に40年間携わった人は「国民の半数がそのように暮らしてきたのではないだろうか。そういう人々にとって、彼の過去は大きな問題ではないのでは」と答えた。世相を心配する意味での言葉だった。チョ・ジヌン氏の問題が明らかになった後、歌手イ・ジョンソク氏が「お前たちはそんなにいい暮らしをしてきたのか」と投稿した。みんな非倫理的な人生を送っているのに、問題にする資格があるのか、という意味だろう。公の人物や有名人を批判すれば、こうして人に指をさされるような世の中になった。倫理が崩壊したこの世の中、「野蛮の時代」に共に引き戻されつつあるのだ。
チョ・ジヌン氏の問題は意図せずして韓国社会の倫理レベルを反映するバロメーターになった。「俳優の本質」に関する単純な問題が政治問題に拡大したためだ。今回のことをきっかけに浮上した少年司法を巡るさまざまな問題は議論に値する。しかし、「チョ・ジヌン氏が復帰しなければ、多くの非行少年たちは希望を得られない」という奇怪な論理には同意できない。むしろ「野蛮の時代」に戻る象徴になるだろう。彼の他にも非行少年が希望を得られる倫理的な人物が韓国社会には大勢いる。
鮮于鉦(ソンウ・ジョン)記者