もしや、当時の朴正煕は「記号1番」を占めることで、まだ識字率が必ずしも高くなかった時代に、当選に有利なように活用したのではないだろうか? そうではなかった。このときの記号1番は新興党の張履奭(チャン・イソク)候補で、民主共和党候補として出馬した朴正煕は記号3番だった。
第5代大統領選挙では計7人の候補が登録した。沈之淵名誉教授は『韓国政党政治史』で「クーデターで政権を掌握した軍部が国民の信任を得て再び権力を握ることに成功するのか、もしくは軍政終息を掲げた旧政治家が権力を握って真の意味での民政移譲を実現するのかという点で、国民の非常に大きな関心を引き付けた」と記した。
当時、朴正煕は「斬新な人物を除く旧政治家は第2線へ退かせ、新たな歴史の創造において原動力となる新勢力中間層の登場を支援する」と強調した。しかし野党側は、許政(ホ・ジョン)と宋堯讃(ソン・ヨチャン)の二人が辞退したにもかかわらず、対立・葛藤の様相を脱することができなかった。野党側で最も高い支持を集めていた尹潽善候補は「朴正煕は麗水・順天事件(1948年10月19日に起きた軍事反乱事件。鎮圧の過程で多数の民間人が殺害された)に関連がある」という思想問題を提起し、共和党が「かつてのマッカーシズムの手法を使っている」と反発するという珍風景が起きていた。米国の情報機関は「3・15不正選挙のようなことが再び起きたら韓国は本当に共産化するだろう」と懸念していたが、選挙は公正に行われ、安心したという。
選挙結果は、朴正煕が470万2640票を得て1位になった。得票率は46.64%だった。2位の尹潽善・民政党候補は454万6614票、45.09%の得票にとどまった。開票の序盤では尹潽善が勝っていたが、朴正煕が逆転に成功した。今のような状況だと想像し難いことだが、全羅道地方で得た支持が朴正煕の当選を大いに助けた。逆に、肝心の軍の不在者投票では尹潽善支持の方が多かった。これは、当時の大統領選挙の公正さを立証する証拠の一つだ。
整理すると、こうなる。「朴正煕はクーデターで政権を樹立した」というとき、これは1963年12月まで朴正煕が務めていた国家再建最高会議議長を指す場合に限って正解だ。しかし「朴正煕はクーデターで大統領になった」と言うのであれば、それは間違っている。何度も言を翻して物議を醸したが、朴正煕は最後には軍服を脱ぎ、民間人の身分で公正な大統領選挙候補として出馬し、韓国国民の審判を受けた。
そして「直選制大統領選挙」において国民の支持を得て、大統領の座に登った。いくら朴正煕の第3共和国を批判したいとしても、この部分くらいは認めるべきだ。第3共和国大統領に就任した朴正煕は、国民の支持を得た合法的な大統領だった。この事実を、韓国人はしばしば、あまりにも簡単に忘れてしまったり無視したりしている。
兪碩在(ユ・ソクチェ)記者