以下の内容は完全に、韓国海軍士官学校教授のソク・ヨンダルとキム・ジュンべの論文「日本海軍提督東郷平八郎のネルソン・李舜臣比較発言についての歴史的考察」(『歴史文化研究』92集、韓国外国語大学グローバルキャンパス歴史文化研究所、2024)に基づいたもの。
■植民地時代:ネルソンから東郷平八郎へ
対馬海峡での戦いから1年半が経過した1906年11月、『太極学報』という雑誌にこんな記述が載った。
「乙いわく、東西海軍の名将はおそらく英国のネルソンと日本の東郷平八郎であるか。甲いわく、真の海戦の先生は朝鮮の李舜臣だ」(崔麟「甲乙会4」、『太極学報』第4号、1906年11月24日)
朝鮮の名将・李舜臣をネルソンや東郷平八郎よりも優れた人物だとした民族主義的な記述だ。これを書いた人物は、東京の留学生だった崔麟(チェ・リン)だ。日本の英雄・東郷が李舜臣に言及したのであれば、崔麟は当然引用したはずだが、言及はない。
2年後の1908年、申采浩(シン・チェホ)が書いた歴史小説『水軍第一偉人 李舜臣伝』にも「近年、ソンビ(学者・文人)たちが時折、英国の水軍提督ネルソン氏を李忠武公と対と成していわく」という記述が登場する(申采浩『李舜臣伝』、パープル、2011年、pp117-118)。だが申采浩も、李舜臣をネルソンになぞらえただけで、東郷の李舜臣賞賛には言及しなかった。
そして1921年、中国・上海で、東郷が李舜臣を称賛したと主張する記述が出現した。書いたのは上海臨時政府の要人だった民族主義歴史学者の朴殷植で、タイトルは『李舜臣伝』だ。「日本の海軍大将東郷平八郎は、李舜臣に似たいと願ったが、ネルソンに似たいとは願わなかった」(朴殷植『李舜臣伝』〈四民報〉。『白岩朴殷植全集』第4巻、2002年、p638)。この朴殷植『李舜臣伝』が、最初の記録だ。朴殷植は出所を明かさなかった。
そして14年後の1935年、「李舜臣はネルソンより優れている」と「日本の将軍」が発言したという主張が再び出てきた。だが、その「将軍」は東郷ではなかった。
「元連合艦隊司令長官末次大将の演説でも、李舜臣を名将だとしている」(弁護士ホ・ホン、『三千里』1935年3月号)、「大阪毎日新聞を見た宋鎮禹(ソン・ジンウ)が、末次大将が李舜臣をネルソンよりも優れた名将だと演説した、と伝えた」(7月号)
二人によると、こうした評価をした人物は東郷ではなく別の日本の司令官、末次信正だった。演説を行った時期は1934年10月15日で、場所は大阪公会堂だった。ところがこの演説文の録取記録を見ると、李舜臣について末次が行った発言はこのように記録されている。
「朝鮮では当時の名提督李舜臣の史跡を非常に誇りにしている」(ソク・ヨンダル他、前掲論文)
これが全てだ。李舜臣がネルソンより優れているという話はない。にもかかわらず、韓国国内の知識人は「新聞を見ると」という伝聞形式で、日本の将軍が李舜臣を称賛したと主張した。だがそれすら、「日本の将軍」は東郷ではなく第三の人物だった。
朴鍾仁(パク・チョンイン)記者